日時 2026年7月12日(日)14:00~
会場 国立オリンピック記念青少年総合センター カルチャー棟 大ホール
曲目
- 女声合唱とピアノのための『良寛相聞』
作詩:良寛/貞心尼 作曲:千原英喜
指揮:花岡由裕 ピアノ:水戸見弥子 - 男声合唱のための『おらしょ』カクレキリシタン3つの歌
作曲:千原英喜
指揮:白井智朗 - 『Hodie Christus Natus Est』
作曲:Jan Pieterszoon Sweelinck - 『Denn er hat seinen Engeln befohlen』詩篇91編
作曲:Felix Mendelssohn Bartholdy - 混声合唱とピアノのための『くちびるに歌を』より「くちびるに歌を」
作詩:Cäsar Flaischlen 訳詩・作曲:信長貴富 - (アンコール)『Greetings』
作詞:清水雅彦 作曲:千原英喜
指揮:白井智朗 ピアノ:出田晶子
合唱コンサートに行ったのは久しぶり。
同じ時間帯に池袋の東京芸術劇場で、新交響楽団によるシベリウス「交響的幻想曲」と「交響曲第5番」があった。
非常に惹かれたけれど、代々木を選んでしまった。
というのも、カクレキリシタンの「おらしょ」を歌うというからである。
そしたら、アマオケの演奏会に行ったときに、この合唱会のビラをもらった。
これはもう、呼ばれている!?
行くっきゃない。
奈良大学通信教育で勉強を始めてからしばしば思うことの一つに、レポートや答案を作成するために何か特定のテーマを追っていると、それに関する材料が不思議と身の回りに集まってくる――というのがある。
気のせい?
偶然?
シンクロニシティ?
知恵の神が付いている?
世の中は実はそのように(ネットのターゲティング広告のように)編まれている?
ついスピリチュアル的にものを解釈したくなるのがソルティの悪い癖である。
一番考えられるまっとうな理由は、頭の片隅に常に、いま取り組んでいるレポートや答案のことが巣食っているため、ちょっとでも関係しそうな情報に出会うと、意識が敏感に応答するから。
つまり、ふだんなら見逃しているトリビアな情報に注意が向くようになっているからである。
ソルティの前世は隠れキリシタンだったのかも・・・・なんて、“オーラの泉”的に考えるまでもない。(でも、どの前世においてもマイノリティだったような気はする)
「おらしょ」とは、ラテン語のOratioに由来する言葉で「祈り」を意味する。
受付でもらったプログラムから引用する。
16世紀以降のキリスト教徒に対する弾圧から逃れ、長崎地方でひそかに信仰を継承した潜伏キリシタンたちによって受け継がれるなか、祈りの文が訛ったかたちが「オラショ」として今日まで残ったのである。
オラショは多くの場合、仏教のお経同様の言葉のつらなりに過ぎないが、中にはメロディがついている「歌オラショ」と呼ばれるものもある。長崎・生月島のオラショなどはCDになって発売されている。
本演奏会で歌われた「おらしょ」は、潜伏キリシタン達によって歌い継がれてきた「歌オラショ」そのものではなく、作曲家の千原英語喜が、「カクレキリシタンの伝承歌と中世・ルネサンス期のキリスト教聖歌を素材に、これらを私の自由なファンタジーによって」作曲したものとのこと。
「おらしょ」を構成するそれぞれの曲は、グレゴリオ聖歌や讃歌、長崎地方の民謡などの要素を取り入れながら展開される。その響きは、ときに中世西洋の煌びやかで神秘的な雰囲気を漂わせ、ときに日本の海とともに生きてきた人々の力強い営みや、厳しい弾圧のなかで信仰を守り抜いた潜伏キリシタンの哀切な思いを感じさせるものである。
宮城県の斎太郎節のような漁師たちの歌う民謡と、バッハの教会音楽をミックスしたような、和洋折衷の味わいが面白かった。
宮崎賢太郎の本にあったように、キリスト教が徳川幕府によって禁止され、宣教師が日本にいなくなったあとは、隠れキリシタンの集まりにおいて初期の教えは変容し、祈りの言葉も意味を失い、呪文のように有り難く唱えるだけのものとなった。
次のようなラテン語の文句を彼らはどのようにとらえていたのか。
あめ まりあ がらしゃ めんな どもすてこ
もとのラテン語: Ave Maria, gratia plena, Dominus tectum
意味:「めでたし、マリアよ、恩寵に満ちた主は汝とともに」(ルカ福音書)
ソルティは子供のころ、卒園式や卒業式で歌われる『蛍の光』の歌詞の中の「あけてぞけさは別れゆく」の意味が分からなくて、「アケテゾケサ」という名の人物がいるのだと思っていた。
アケテゾケサさんが朝の光の中を去っていく後ろ姿を思い描きながら、歌っていた。
別にそれでかまわなかったし、周囲の大人にあえて意味を聞こうとも思わなかった。
中学の国語の時間に、「ぞ(助詞)+連体形止め(別れゆく)」で強調の意になると言うこと(係り結びの法則)を学んで、なんか呪文が解けていくような、アケテゾケサさんが空中にかき消えたような、一抹のさびしさをおぼえた。
また、日本人が最もよく知っているお経で、なんなら暗唱もできる人も多いだろう『般若心経』だって、そのお経の内容をちゃんと説明できる人は決して多くないだろう。
意味の分かる言葉だけが力を持っているのではない、いや逆に、意味が分からない音の連なりだからこそ、有難い、神秘的なものに思える。
そういう意味では、中国から入ってきたお経が日本語訳されずにまんま漢語読みされたのは、仏教を広めていく上では正解だったのかもしれない。
最後の伴天連シドッチが肌身離さず持っていた「親指のマリア」
(思うに、シドッチの母親がモデルだったのではなかろか?)
(思うに、シドッチの母親がモデルだったのではなかろか?)
閑話休題。
ここ数日、暑さが急に増した。
歳のせいで体がついていかない。
体が重だるく、頭もすっきりしない。
こんなときは涼しいところで寝ていたい。
この演奏会も前もってチケットを買っていなければ、行くのをキャンセルしたと思う。
だが、代々木まで頑張って出向いた。
学生たちの歌に身をさらしたら、あら不思議、頭も体もシャキッとしたのである!
学生たちの歌に身をさらしたら、あら不思議、頭も体もシャキッとしたのである!
女性合唱の清流のきらめきのような涼やかさ。
男声合唱のしっかり根を張った樹木のような力強さ。
若者たちのつややかな張りのある声。
学生たちのハーモニーが生み出す波動が、客席のソルティを包み込んで、浄化(あるいはエネルギー補填)してくれたよう。
軽井沢か尾瀬ヶ原に足を踏み入れたような爽やかな心地になった。
演奏会終了後は、心身ともにすっかり“整った”。
今後はインスツルメントだけでなく、合唱にも足を運ぼう。



