1947年松竹
82分
佐田啓二の映画デビュー作。
前年松竹に入社したばかりで、いきなり大女優田中絹代の相手役という大抜擢。
よっぽど、木下に見込まれ、気に入られたのだろう。
その慧眼はさすがと言うべきで、新人とは思えない風格と演技力である。
なにより華がある。
本作での田中とのキスシーンは当時世間を騒がしたという。
世の女性たち――とりわけお姉さま方・おばさま方――の人気を一身に浴びたであろうことは想像に難くない。
というのも、役の上では佐田啓二演じる真一は、田中絹代演じる小夜子より年上の設定であるが、実年齢では佐田は田中より17歳年下なのである。
本作は、最初と最後の部分のみ、子持ちの未亡人である小夜子を描く現在の設定で、残りは回想シーンで占められる。
回想シーンは、小夜子と真一の列車の中の出会いから始まる。
交際がすすみ、互いの愛情が深まり、結婚を望むも、真一の父親に強く反対される。
そのうちに真一は兵隊にとられる。
紅涙しぼる別れの停車場。
真一が一時帰国したわずかな時間、二人はようやく許されて、結婚する。
しかし、真一は戻ってこなかった。
松竹お得意の大船調メロドラマである。
松竹お得意の大船調メロドラマである。
田中絹代が初恋の喜びにふるえるおさげ髪の女学生を演じている。
なるほど、田中は可愛らしい童顔であるし、純情可憐な乙女に扮するに十分な演技力を持ってはいるけれど、かなりチャレンジングというか無理くり感ある役柄である。
というのにも、実年齢とのギャップのみならず、それなりのわけがある。
召集令状が届いて戦争に行く真一を小夜子が見送る停車場シーンにおいて、木下監督や田中絹代のファンならだれでも、本作の3年前に公開された反戦映画の傑作『陸軍』を想起せずにはいられまい。
そこで田中は、出兵する二十歳の息子(星野和正)を見送る母親を演じて圧巻であった。
映画史に刻まれる名シーン、観る者のまぶたと心に永遠に揺曳する母親像を作り上げた。
息子を見送る初老の母親を演じた3年後に、若き恋人を見送る乙女に扮したわけで、観る者はどうしたって、令嬢小夜子に『陸軍』の母親の面影を重ねざるをえない。
そのチャレンジ精神をもって「不死鳥」と題したのであろうか?

伊藤若冲の「不死鳥」
それにしても、昭和20年代の性道徳の旧弊なこと!
真一の父親(小杉勇)が小夜子と真一の結婚を許さないのは、長男である真一が自分に相談することなく、勝手に結婚相手を決めたことが気に入らないからだ。
よくも知らない小夜子のことを、「学生時代から男と遊び歩いているふしだらな女」とこき下ろす。
むろん、二人の交際は清いもので、グループハイキングやテニスや百人一首(!)が関の山である。
真一が出征すると、今度は、「息子は戦死するかもしれない。みすみす未亡人をつくるような無謀な結婚は許さん! 一時の感情に走って、一生を台無しにする。そんな馬鹿なことは考えるに及ばん!」と反対する。
いやはや、この時代の“未亡人”に対するイメージの悪さはたいへんなもんである。
実際に未亡人になった小夜子もまた、真一の弟との会話の中でこう呟く。
「未亡人と言えば、幸福な日射しから忘れられて、寂しい蔭の女のように思われますけれど・・・・」
しかも、小夜子は真一の弟と再婚させられそうになった。
戦争未亡人は、亡くなった夫の兄弟と妻合(めあ)わせられることが多かったのである。
思い起こせば、80年代後半に一世を風靡したトレンディドラマの中で「バツイチ」という言葉が生み出されるまで、「離婚」は大いなる人生の失敗で、世間的に恥ずかしいことであり、離婚した女は「疵もの」とみなされ肩身の狭い思いをしていた。
子持ちの女が再婚するのは自分勝手なふるまいと非難された。
じゃあ、どうやって子供を食わしていけばいいのか。
本作でも小夜子は、「そのうちに得意な裁縫を生かして洋品店でも持てたら・・・」とけなげなことを言っているが、男女雇用機会均等法などない、ましてや戦後まもない時代、女が稼げる仕事は限られていた。
かたや、1936年に出版され大ベストセラーになり39年に映画化された『風と共に去りぬ』の主人公スカーレット・オハラときたら、3度も結婚と別れを繰り返している。(うち2回は未亡人となった)
南北戦争後の建設ラッシュに乗って、前科者を安く雇い上げ、自ら材木商の仕事に乗り出している。
まさに「不死鳥」のごとく。
そのような女性の生き方が称賛され、全米を魅了した。
日本がアメリカに敗けたのも不思議なかろうて。

