まず、東京都副知事(2011年8月現在)の猪瀬直樹氏は30代にしてこれだけの仕事をしていたのか、と感心。

昭和16年(1941年)の太平洋戦争半年前に総力戦研究所で実際に行われた、若きエリート官僚チームによる対米戦争シュミレーションの経緯と顛末を、当事者へのインタビューや残された日記、極東軍事裁判における公的な文書を丹念に調べ上げて、事実を積み上げいくことで明らかにしていく。
一方で、現実の国際情勢や日本政府や軍部の動向をわかりやすく並列していき、研究生らがシュミレーションの結果たどり着いた結論(「日本はアメリカに負ける」)が、いかに実際の政治に影響を及ぼすことが無かったのかを浮き彫りにする。厖大な資料を一冊に、簡潔に、過不足無く、まとめ上げる力量はすごい。

よく言われていることであるが、日本は負けるとわかっていながらアメリカと戦争した。
もちろん、「大和魂と神風させあれば勝てる」と思っていた愚かな軍部関係者や右翼連中はいただろう。都合の良い情報ばかりしか流さないマスメディアのいうことを鵜呑みにして、最期まで日本の勝利を信じていた軍人や国民もいただろう。
だが、ちょっとでも当時の欧米の様子、アメリカと日本の圧倒的な資力の差を知っていた者なら、日本が勝てるわけないと知っていたのである。そう、大日本帝国憲法において統帥権を有する昭和天皇でさえ、おそらくは知っていた。(若い頃にアメリカに遊学している) であるから、天皇は、少なくとも対米戦には前向きでなかった、とされている。

なのに、戦争に突入せざるを得なかった。
なぜか?
これが、猪瀬直樹氏の問題提起である。

本書の中でとくにこれが原因とはっきり指摘しているわけではないが、行間から見えてくるもの、そして巻末の勝間和代との対談から、次の二つが挙げられよう。

1.大日本帝国憲法における制度的欠陥
これは、統帥権は天皇にあり、「天皇は神聖にして侵すべからず」であったから、政府も口出しできなかった。実質上、統帥権は軍部にあり、軍部は政府とは別個に作戦を発動できた。つまり、政府には軍部を抑える力がなかったということ。俗に言う「軍部の独走」を招く基盤は、憲法という制度のうちに潜んでいた。

2.日本人の国民性(体質)の問題
誰も決断を下し責任をとる者がおらず、時代の空気にみんなで流されてしまった。

本書の中でもっとも面白い箇所であるが、開戦後に確保できる石油量を算出する場面がある。
戦争には膨大な量の石油が要る。開戦(1941年12月)の約半年前にアメリカからの石油の輸入がストップした時点で、背水の陣が引かれた。唯一の窮余の策は、インドネシアに侵攻し、油田を確保することであった。だが、それもインドネシアから日本まで石油を運ぶタンカーがアメリカ軍に沈められたら、お手上げである。
総力戦研究所の若きエリートたちは、各々の能力と経験によって配役された模擬内閣を作り、この設定において、持てる情報と知力を尽くし様々な角度から検討し、討論を重ね、シュミレーションした結果、「日本は燃料不足に陥って、アメリカに敗れる」と結論したのであった。
まさに、ビンゴ!である。

しかし、戦争するか否かの最終閣議で、実際の政府がはじき出した日本が利用できる石油の量を示す数値は、確たる根拠もないままに大幅に水増し(油増し)されていた。その数値を元に「これならやるしかない」という合意形成がなされたのであった。
つまり、はじめに戦争ありきで、数値はそれをみんなで合意するための手段として利用された(捏造された)のである。読んでいて恐ろしいくだりである。

ここから見えるのは、日本人は事実を元に論理的、客観的に状況を分析し、状況をありのままに受け入れ、そのデータを基に対策を講じ、戦略を立てて実行するということが苦手な民族だということである。(日本には哲学、論理学、科学は生まれなかったのが何よりの証左)

思うに、1より2の理由の方が大きいだろう。というのは、憲法9条の例を見ればわかるように、憲法上の制約なんてのは、平気でどうにでも解釈してしまえるのが日本人だから。

そして、何よりもこの本が今もって重要なのは、戦後70年近く経っても日本人は変わっていないからである。
それが国民性なのだとしたら、そう簡単に変わるべくもなかろう。

それは、今回の福島第一原発事故をめぐる対応に、いや、何よりもここ数十年の原発建設、エネルギー政策をめぐる一連の流れの中にあらわれている。
政府は「東電が安全だといってるから大丈夫」とし、東電は「学者が安全だといってるから大丈夫」とし、学者は「危険だというと仕事が干されるから、大丈夫と言っておこう。どうせ責任とるのは自分じゃないし」とし、東電から莫大な広告料をもらっている、加えて膨大な量の電気を消費しているマスメディアも、「流れに身を任せておくのが一番」と責任回避する。そして、国民は「お上に任せておけば大丈夫」と考える。

行く先に滝壺が迫っているのを知っているのに、いかだの上で仲良く酒盛りしている図、である。

和をもって貴しとなす。(≒誰も責任を取らない)

日本人の国民性がこのようであるのは仕方ない。
100年や200年でこの体質が変えられようか。
であるならば、われわれのリスクマネジメントはこうあるほかない。

日本人は原発を持たない。(われわれは原発を制御できない民である)
日本人は武器を持たない。(われわれは戦争をコントロールできない民である)

日本人が日本人であることを否定して、欧米人のようになろうと体質改善をはかる(国民性の変容を目指す)より、日本人のありのままの性質に見合った政策をとるのが賢明ではなかろうか。