前記事の続き。

心と脳との関係についての3つの見解。

1. 心(意識)と脳(体)はまったくの別物である。(心身二元論)
2. 脳が心を作り出した。心(意識)は脳(体)の産物である。(身的一元論、唯物論)
3. 心が脳を作り出した。脳(体)は心(意識)の働きによって生み出された。(心的一元論、唯心論)

 偏見を承知で言うと、1は文系の人が、2は理系の人が、3は宗教系(スピリチュアル)の人が抱きやすい考え方だと思う。
 そして、1と3は、ある意味、魂の存在を信じることや、肉体上の死後の生を夢想することにつながる。2は、「死んだら終わり。はい、それまでよ~。」である。

 自分はどうか。1と3の中間くらいである。(2というわけではない。1のような気もするし、3のような気もするってことだ)
 もちろん、なんらかの根拠があるわけではなくて、「2が本当だったら、なんか嫌だなあ~」と思うからである。
 なんで嫌かと言うと、いまある「私」という意識は肉体によって産み出されたものにすぎず、肉体の崩壊=死とともに消失し、あとには何も残らないというふうに考えることが、「つまらない」「冒涜的」「屈辱的」「人間の尊厳を壊しかねない」「社会的にリスキー」と思うからである。要は「わたしがかわいい」のである。
 「社会的にリスキー」というのは、天国も地獄も来世の存在をも否定することは、「生きている間に好き勝手しよう」という刹那的な考えを蔓延させると思うからだ。21世紀の現代でも、やはり人々の心のどこかには天罰とか因果応報とか自業自得という観念が巣くっている。(例:震災についての石原慎太郎発言) それが、やけになって他人を傷つけたり自殺したりせずに、なんとか最期までまっとうに生き抜くためのよすが、砦となっているからだ。

 しかし、「そう思いたい」という願望や幻想、「そういうふうにしておいたほうが無難」といった方便と、科学的事実とは、分けて扱われなければなるまい。

 前野は、徹底した身的一元論者。2番である。
 茂木健一郎は、著書を読む限り、世に華々しく登場した最初のうちは明らかに2番だったが、徐々にあやしくなってきて「魂」とか言い始めている。今では1番に近いのではないか。(なるほど、この人には文系に対する憧れのようなものを感じる。)
 
 ところで、ここまで、「心」と「意識」を同一のもののように扱ってきたが、前野の見方に従って、次のように分別しよう。これは、脳科学者の松本元の説だそうだ。
 
心を成り立たせる部品は5つ・・・・ 知(知性、知力)、情(感情)、意(意図、意思決定する働き)、記憶と学習、意識 

 これ以外に「無意識」がある。無意識を心に含めるかどうかは微妙なところだ。無意識だけで生きている生物、たとえば微生物に「心がある」とは言いにくい。

 さて、意識とは、「知・情・意・記憶と学習」全体を主体的に統合する作用だと一般に考えられている。これは普段、我々が「私が知る」「私が考える」「私が感じる」「私が意図する」「私が決定する」「私が記憶する」「私が思い出す」「私が学ぶ」と認識していることを考えれば、首肯できるところだ。5つの部品のうち、上の4つはどれも「私」すなわち意識において起こっていると実感できる。

 知・情・意・記憶と学習については、脳科学の進歩によって、ある程度、そのシステムが解明途上にある。少なくとも、脳のどこの部分で働きを担当しているかがマッピングされている。
 一方、意識については、一体どこにあって、どんなふうに働いているのか(どのような生化学的作用が意識を立ち上げているのか)がまったくわかっていない。
 なぜ、科学的な法則で説明可能であるはずの肉体(脳)から、科学的にその存在すら証明できない心(意識)が生まれたのか。どうやってそれは他の部品を統括できるのか。「私」が認識する対象の生々しさ(夕日の赤、鳥の声、お好み焼きの匂い、アイスクリームの甘さ、絹の下着の肌触り、いわゆるクオリア)は一体なぜ、どうやって生まれるのか。「私」という感覚はなぜ、どうやって生まれたのか。
 わからないことだらけである。
 まさに、お手上げ。

 この人類最大の謎の一つに、前野が出した答えが、「受動意識仮説」である。

 自分とは、外部環境と連続な、自他不可分な存在。そして、「意識」はすべてを決定する主体的な存在ではなく、脳の中で無意識に行われた自律分散演算の結果を、川の下流で見ているかのように、受動的に受け入れ、自分がやったことと解釈し、エピソード記憶をするためのささやかな無知な存在。さらに、意識の中でもっとも深遠かつ中心的な位置にあるように思える自己意識のクオリアは、最もいとしく失いたくないものであるかのように感じられるものの、実は無個性で、誰もが持つ錯覚に他ならない。

 
 クオリアとは、エピソード記憶のどこを強調するかを決め、索引をつけるためのものなのだ。
 
 <私>とは、記憶とも「知」「情」「意」の多様さとも関係なく、ただ単に、ピュアに、「<私>というクオリアは<私>である」、という決まりが脳の中に定義された結果、作り出されたクオリアに過ぎないと考えられる。 (標題書より、以下同)


 ポイントは、心と体を合わせもった途轍もなく見事な「自分」というシステム全体の、主役であり、主体でもあるとこれまで考えられていたイシキ君について、『いや、そうではない。あいつは実は主役ではなくて脇役に過ぎない。本当の主役はムイシキ君だ。ただ、上演の関係上、都合がいいからイシキ君には自分が主役だと思わせておこう。』というところにある。
 真の主役は、舞台と客席と舞台裏で起こるすべてのことを把握して統括管理している演出家ムイシキ君である。そして、イシキ君の正体はと言えば、演出家の思うがままにしゃべり演じることができる、イケメンだけが取り柄のスター気取りの看板役者のようなもの。

 無意識のできごとを単純化して、錯覚し、わかったような気になっている井の中の「私」というのが、生命の真実なのだ。

 一体全体、なぜ、生命は、自然は、そんなことをしたのか?

 「無意識」の小びとたちの多様な処理を一つにまとめて個人的な体験に変換するために必要十分なものが、「意識」なのだ。「意識」は、エピソード記憶をするためにこそ存在しているのだ。「私」は、エピソードを記憶することの必然性から、進化的に生じたのだ。

 生物は進化の過程において、記憶力を発達させてきた。それは生き残るために有利な条件だからだ。サケが生まれ育った川に帰ってくるような本能による記憶装置だけでは、環境の大きな変化に対応できない。敵に襲われた場所と時間と状況を覚えておくことができなければ、予防することができず、また同じ状況を繰り返し作ってしまう。虫歯の痛みを覚えておけなければ、毎食後に歯を磨くという面倒くさい行為をやり続けることができず、健康を害してしまう。
 記憶力が優れている類人猿ほど、高い確率で生き残っていく。
 そして、記憶をエピソードとして、「物語」として脳内に残すことができるようになったのが人間なのである。まさにそのために、物語を体験し記憶に残すために、巧まずして生じたのが「意識」であり、「私」なのである。
 つまり、単に記憶力が向上した結果として、「意識」や「私」が生まれただけであり、そこに何も「ミッシングリング」とか、宇宙人による類人猿ロボトミー(脳手術)を持ち出してくる必要はない、ということだ。

 どうだろう?
 
 コロンブスの卵というか、コペルニクス的転換というか。
 あまりにも単純な説明なので、かえって真実らしい気がしてこないだろうか?
 意識に関するさまざまな難題、ゴルディアスの結び目を一挙に断ち切る説ではないか。
 自分は一読、感嘆の声を挙げた。

 この説のなんともビックリするところは、これがまたしてもブッダが言ったことに符合していることだ。

諸法無我。
「私」というのは幻想に過ぎない。心と体の中のどこを探しても「私」の実態はない。

 ブッダの言葉を現代までそのままの形で伝え続けるテーラワーダ仏教の長老アルボムッレ・スマナサーラはこう述べている。

人は、感じたものは、認識します。そして認識があるから、「私が知った」ということに自動的になるのです。「私は知った」という気持ちは一生続くので、「私」という概念、「私に魂がある」という強烈な誤解が、この「受(感覚)」から生まれるというわけです。この「感じる」というはたらきから、「私」という考え方が出てきます。なにかを感じるから「私はいる」と思ってしまうのです。(『心の中はどうなってるの?』サンガ) 


ブッダ、すげえ~!!
 

 前野がブッダの説いたところと同様の結論に至るのは、もはや不思議でもなんでもない。

あぁ、何十億人もの我が人類は、何千年もの長い時間、死を恐れ続けてきた。それは<私>という存在のこのあまりのはかなさを知らずして、その存在の終焉を恐れていたということだったのだ。なんという無知。
・・・・・私たちが理解したいと願い、失うことを心から恐れていたものは、なんと、無個性でだれもが持つ、単なる<私>という錯覚のクオリアだったのだ。

 ただし、前野説と仏法には大きな違いがある。

 ブッダは輪廻転生を伝えた。生まれ変わりのシステムから抜けることを「解脱」と言ったのである。これは、肉体の死後もなんらかの現象が引き続いていることを含意している。ブッダはそれが何であるか言明していないようだが、少なくとも「私」でないことだけは確実である。ともあれ、ブッダは一元論者ではない。
 もう一点。
 前野の説は、「すべてを決定しているのは無意識である」と言い切ってしまうことで、結果的に宿命論に陥ってしまいかねない。なにしろ、「私の意志」すら、私のものではなく、無意識による民主主義的多数決の結果というのだから。人間が向上するも堕落するもすべて無意識のせいになりかねない。
 それとも、無意識は常に個人や社会の向上を、種としての生き残りを目指して良心的に働いているはず、という前野自身の楽観主義のなせるわざか。
 現実の社会を見る限り、どうもそうとは思えない。
 ブッダは、輪廻からの解脱方法として、あるいは幸福への必須条件として修行や智慧や慈悲を重んじた。なぜなら、人間が何の努力もしないで心の赴くがままに(無意識のなすがままに)生きていれば、人も社会も必ず堕落すると考えていたからだ。
 ブッダは宿命論者ではなかったのである。


 ひとつだけ確かに言えることは、前野説を受け入れるための最大の反対者は、二元論者でも唯心論者でもなく、「私(意識、心)」そのものだという点である。
 有史以来、人類が、それこそ古今東西の偉大なる宗教家や哲学者や科学者が、「私」や「心」について考え続けた挙げ句、最後に到達した答えが、「私も意識も心もイリュージョン(錯覚)である。そもそも、そんなことを考えること自体、無意識のしわざであって、残念ながら、あなたはそれに気づかないで、自分が高尚なことを考えていると錯覚しているだけのオメデタい奴にほかならない。」では、あまりにお間抜けではないか!
 いったいどんな卑屈な「アイデンティティ(私)」が、この結末を素直に受け入れられるだろうか?


前野の受動意識仮説。
トンデモ本と取るか、意識の本質に迫る画期的なパラダイム転換の書と取るか。


より深い洞察を期待して、次作を待ちたい。