と言っても、クリシュナムルティ自身が書いたものではなく、クリシュナムルティの教えの熱心な共鳴者にして理解者であるルネ・フェレが、クリシュナムルティについて解説した本である。
第一部では、インドの貧しい家庭に生まれた少年が、いかにして「世界教師」の器として英国のブルジョワのスピリチュアリスト達に見出されたか。青年時代にどのような精神的成長を遂げていったか。そして、どのようにして覚醒したか(悟りに至ったか)を紹介する。
そこに、著者は何にもまして「懐疑の精神」を認める。既存の伝統、宗教組織、教義、哲学、霊的体験(それがいかに神秘的なものであろうとも)、権威、イデオロギーについて、鵜呑みにするのではなく、むしろ徹底的に否定する。その否定につぐ否定の道行きの先にしか真理はあらわれない。
結果、クリシュナムルティは自らを営々と養い育ててくれた母体自体(神智学協会、星の教団)をも最終的に否定し、決別することになる。
第二部ではクリシュナムルティの教えの核心を、彼と長年の知遇を得た著者の理解のままに、著者自身の言葉で語る。
「異様なまでに凝縮され、研ぎ澄まされたクリシュナムルティ論」と訳者である大野純一があとがきで書いている通り、実に考え抜かれ、時の中で熟成され、言葉も引用も選び抜かれ、無駄な説明を徹底的に省いた、高い緊張感と緊密な論理をはらんだ文章である。一行たりともおろそかには読めない。ルネ・フェレのクリシュナムルティ理解が半端でないことが知られる。たんなる解説書とか伝記の域を超えて、この本自体が一つの哲学書というか思想書と言うべきであろう。
序文を書いた英訳者は愚かにも、「本書をクリシュナムルティの教えの入門書とみなされたい」と述べているが、なかなかどうして入門書のレベルではない。適切な喩えではないかもしれないが、大乗仏教の真髄を凝縮している般若心経みたいなものだ。般若心経を大乗仏教の入門書とは言えまい。
クリシュナムルティを相当読んできた読者が手にしてはじめて、真価を発揮する本である。一文一文があたかもタグであるかのようで、そこをクリックすれば、クリシュナムルティという広大なサイバースペースにある、膨大な彼の著書の中の他の言葉群や、他の人間が記した彼の伝記中のエピソードにつながる、そんな感じである。
自分も一時、相当クリシュナムルティを読んだ。クリシュナジーにイカれたと言ってもよい。
覚者、光明を得た人、現代の仏陀、孤高の哲人、世界教師、真理を知る人・・・。
その神秘的な生い立ちと、古代ギリシャの哲学者のような印象的な風貌、そして、世界的な学者であろうと宗教家であろうと政治家であろうとマスコミであろうと、いかなる対談相手をも凌駕する、洞察力と観察力と存在感。また、詩人としての才能も豊かであり、同じ大野純一が訳している『生と覚醒のコメンタリー』(春秋社)などは、自然描写と彼の哲学とが客観的で抑制の効いた詩的な文体のうちに見事に融合した、第一級の随筆である。ことあるごとに本棚から抜いては、あちらこちらのエピソードを読み返し、しばし黙想にふけったものである。(いまこれと同じことをナンシー関の本に対してやっている。)
しかし、あるとき、引越しを機に、持っていたすべてのクリシュナ本を友人の経営している古本屋に売ってしまった。
なぜか?
「もういいや」と思ったのである。
亡くなって25年になる今も依然としてクリシュナムルティの人気が高いのは、どの程度本気なのかは問わず、「悟り」を求める人が多いからであろう。「真理」と言いかえてもよい。自分もまたその一人である。それが、個人においても、社会においても、唯一の「苦」からの離脱の道だと思うからだ。
悟りとは何なのか、悟った状態とはどんなものなのか、悟るためには何をすればいいのか、悟った人は世界をどのように見ているのか・・・・。
そういうことを知りたくて、クリシュナムルティの本を何冊も購入しては熟読してきたのであった。それが、どの本も結局、同工異曲、同じ言説の繰り返しに過ぎないとわかっていても。(真理は一つなのだから、当たり前の話なのだが)
しかるに、たった一つ、疑問があった。
クリシュナムルティは一切、真理にいたる手段、方法について語っていないのである。自分自身が悟りながら、世界中を旅して悟ることの重要性について膨大な聴衆に伝え、自己変容を促しながらも、「そこに至る道はない」と無情にも言い放つのである。
これは最初からわかっていたことだった。
クリシュナムルティが、孤高の覚者として、何ものにも縛られない一人の世界教師として、最初の咆哮を放ったのは、いわばクリシュナムルティが「クリシュナムルティ」になったのは、1929年オランダのオーメン集会。何千人という会員の前で、自らが長であった「星の教団」の解散宣言をした時である。
彼の第一声がこうである。
この言葉がクリシュナムルティ自身を縛ってしまった、とは言わない。「私は言明する。<真理>は道なき領域であり、いかなる道をたどろうとも、いかなる宗教、いかなる教派によろうとも、諸君はそれに近づくことはできない。これが私の見解であり、私はそれを絶対かつ無条件に支持するものである」。
しかし、クリシュナムルティは執拗に(と言っていいだろう)方法論を語ることをその後の生涯にわたって拒否した。結果として、クリシュナムルティの周囲で、またはクリシュナムルティの言葉を聴いて「悟った」人間の話はまったく聞かないのである。
むろん、悟った人間は「私は悟った」とは言わないからかもしれない。自己主張や自己定義や自己顕示の欲望から自由なのが「悟っている」ということであるならば。
ある意味では、「一切の方法論に懐疑の目を向け、それが内包する欺瞞~自我(エゴ)が存続するための巧妙な手口~を徹底的に暴き、それを否定する」という方法論を提唱したと言ってもよいのかもしれない。そうやって、すべてを徹底的に洞察し、虚偽を虚偽として見抜き、退けたさきに、「それ」が訪れる可能性がひらける。
人が、自分自身の避けがたい問題から逃避しようとする一切の企ては失敗に帰着するということを悟るに至るとき、彼は真の孤独の何たるかを知るであろう。クリシュナムルティが単独性(aloneness)と呼ぶものは、たんなる寂しさではなく、真の、根源的孤独である。彼は全的裸形と全的責任の苦悶を経なければならない。彼は己の最も内奥の苦痛であり、そしてそのなかで彼が生きている社会風土に助けられて無数の自己欺瞞の下にひた隠しにしてきた、基本的恐怖に直面しなければならない。彼はいまや、この恐怖に充分に気づく。それは彼の骨髄までしみ通り、彼をその氷のような手で締め付ける。けれども、この死の苦悶は新生の陣痛に他ならない。彼の恐怖の叫びは、突如として最終的な解放の歌になる。苦悩はそのクライマックスに達し、そして突然消え去る。人は、一切の<私>意識が置き去りにされた後の、ある新しい、名状しがたい状態のまばゆい光のなかへ入る。
筋道は明瞭だ。
しかし、誰がこの困難極まりない道程、自分が正しい方向に進んでいるのかどうかさえ検討がつかないような道を、たった独りで、誰の助けも、何の手段も用いることなく遂行できるだろう? それができるのは、クリシュナムルティのように「選ばれた」人のみではないか、と皮肉の一つも言いたくもなる。
そしてまた、こうも思う。
いかに生来の資質に恵まれていようとも、クリシュナムルティ自身もまったく独力で「そこ」に達したわけではない。少年の彼を見出し、然るべく教育した人々がいて、何がしかの霊的知識を与えつつ、世界教師への道を整えてくれた組織が存在し、個人的にもヨガや瞑想を指導してくれた師がいたはずである。それらがなければ、彼は生まれ故郷のインドにいて、バラモンの伝統のままに生き、ちょっとぼんやりした、仕事のできない貧相な男のままで一生を終えていたことだろう。・・・・・
言いたいことは分かった。もう言葉は十分だ。
要は、頼りにする杖を持つなということだろう。
ならば、まずクリシュナムルティを片づけよう。
そうして、自分はクリシュナムルティのすべての本を手放したのであった。
クリシュナムルティの教えは、よく革命的と言われる。
その通りである。
しかし、実のところ、それは西洋人にとって革命的なのであって、東洋人、とりわけ仏教徒にとってはなんら目新しいものではない。もっと断定的に言えば、仏陀の教えをそのままに伝える南方系の仏教を学ぶものにとっては今さらの言説のオンパレードである。
クリシュナムルティの教えは、まったくのところ仏陀のそれとかわりがないのである。(その意味では、両人がインドから出たということは何か因縁を感じる)
たとえば、上記の引用文は、そのまま仏陀の教えの中核となる「四聖諦」と重なる。
まず、一切行苦に対する認識があり(苦諦)、そこには渇愛という原因があることを見抜き(集諦)、それを終わらせることができることを確信し(滅諦)、そのための道を示す(道諦)。仏陀もまた「苦」こそが、解放への手がかりになることを説いたのである。
しかも、仏陀にあってクリシュナムルティにないものがある。そう、4つめの道諦、真理へ至るための方法論である。仏陀は、道諦の具体的な内容として八聖道を伝えたのであった。
クリシュナムルティが革命的と称えられる最大のポイントは、近代西洋文明の根本基盤となっている「自我」を否定したところにあろう。確固たる自我があると考えることがそもそもの誤りであって、その自我の固定化と拡張傾向こそが諸悪の根源と喝破したのである。そして、自我の形成にあずかるところ大である「思考」を、害悪以外の何ものともみなさなかった。
これもまた仏陀の専売特許である。
諸法無我。そして、思考を退治するための修行方法としての観冥想(ヴィパッサナー)。
クリシュナムルティは、幼くして東洋(インド)から西洋(イギリス)に渡り、上流階級の間で西洋文化の洗礼を受け、西洋的学問やマナーを基礎から身につけた。日常会話も講話もクイーンズイングリッシュだったと言う。
だからこそ、西洋的概念と語彙を使って、古くから東洋に伝わる教えを、西洋人に理解しやすいスタイルのうちに伝え広めることができたのだ。
だからと言って、別にクリシュナムルティを貶めるつもりは毛頭ない。仏陀と同じ真理にほとんど独力で達した。それは、圧倒的に偉大なことである。
そうして、西洋はクリシュナムルティを通じて、ようやく仏陀を発見するのである。