日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会に参加。
 東京代々木・国立オリンピック記念青少年総合センターにて。

 講師のアルボムッレ・スマナサーラは、スリランカ出身の上座仏教(テーラワーダ)長老である。
 『怒らないこと』(サンガ)、『心がスーッとなるブッダの言葉』(成美文庫)などのベストセラーを含む膨大な数の著書がある。押しも押されもせぬ日本の上座仏教界のリーダー的存在、というか今や日本人の精神的指導者の一人と言ってよいだろう。
 300名定員の会場はほぼ満席であった。

 今なぜスマナサーラ長老がこれだけ人気を集めるのか。今なぜ上座仏教なのか。

 会場に集まった一人一人に、それぞれの理由と求めるものがあるのだろう。
 だが、共通しているのは、既成の仏教教団(いわゆる大乗仏教系)では飽き足らないものを感じていること。かといって、キリスト教やイスラム教は文化基盤があまりに違いすぎる。近代以降の新興宗教は、統一協会やオウム真理教の事件以降、どうしても「うさんくさい」感じをぬぐいきれない。でも一方で、心の拠り所はほしい・・・。
 そこへ颯爽と現れたのが、スマナサーラ長老であった。

 もっとも、上座仏教自体は、明治時代に主要な経典が翻訳され研究されるようになっていたし、母国で上座仏教を信仰する在日のタイやミャンマーの人々を中心として、各地にお寺やサンガが存在してはいた。
 しかし、広く一般の日本人に紹介され、浸透するきっかけとなったのは、やはり、すぐれた語学力と他文化理解のセンスを持ち、スピーチ能力に長け、カリスマ性を宿すスマナサーラ長老の来日(1980年)、そしてその教えを広めるべく、1994年に日本テーラワーダ仏教協会が設立されたことが大きいだろう。

 「1994年」という年は、もしかしたら、第2の仏教伝来の年として、将来の歴史教科書に掲載されるかもしれない。そのくらい、大乗仏教と上座仏教は、別物なのである。

 近代化の進む中、廃仏毀釈して国家神道への道を歩み出した日本人は、敗戦で「神」を喪った。その後、「金」という神様に乗り換え、経済復興を果たしたけれども、バブル崩壊でその信仰も潰えてしまった。そこへ起きたのがオウム真理教事件であった。これで、決定的に宗教は「禍々しいもの」「うさんくさいもの」に堕ちてしまった。
 もはや特定の宗教を信仰していること自体が、他の人には大っぴらには言えないような「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ信者」にされてしまったのである。何を信仰するか、あるいは信仰を持つ持たないの是非は別として、これは国際的には異常なことといっていいだろう。
 そうして、隠れ信者以外の多くの日本人は、確かな宗教的基盤を持たない存在の相対性の不安の中に置かれることになった。鬱や統合失調やパニック障害など、2000年以降の日本人の精神疾患の増加はこれを抜きにしては考えられないと思う。
 そこへ不意打ちしたのが、今回の震災・津波・原発事故である。

 上座仏教は、希望や目標を失い暗い森をさ迷う日本人に、新たな希望の光を、足場とする確かな梯子を与えてくれるのだろうか?

 スマナサーラ長老は言下に否定する。
「夢や希望を持つこと自体が大きな間違い」
「夢や希望という幻想と、現実とのギャップが、不満・落ち込み・怒り・妬み・憎しみ・失望・嘆きの原因」
仏教は信仰ではない。論理的で実践的な心の科学。仏教は理解し、実践するもの」
「生きることに意味はない。存在というのはもとから無価値」

 1500年の歳月を経て、我々日本人がはじめて知った仏教の真髄、お釈迦様の言葉は、想像を遙かに超えたとてつもない言説のオンパレードであった。
 それは、コペルニクスも真っ青の、存在意義の大転換を我々に迫る。
 これだけの哲学(哲学と言っていいのかどうかはわからないが)は、空前絶後だ。19世紀の西洋人が仏教を理解できず、「虚無の信仰」と怖れたのもまったく頷ける。

 果たして、どれだけの日本人が仏の教えを理解し、実践し、納得し得るだろうか?
 正直、まだ自分はその衝撃を受けとめ切れていない。
    

テーラワーダ仏教協会のホームページは
http://www.j-theravada.net/


2012秋の関西旅行 002