記憶喪失になったぼく 記憶喪失になってみたいと思うことがある。

 過去にあったいろんな嫌なこと、恥ずかしいこと、つらいこと、取り返しのつかないことの記憶が、今の自分を苦しめるとき。過去の自分が今の自分を縛り、制約し、頑固にし、臆病にさせているなあと思うとき。過去の重さにつぶされそうなとき。
 そんなとき、いっそ記憶喪失になって、ここ数十年間の記憶がなくなれば、どんなにか自由で楽チンでハッピーだろう、と思ったりする。
 「今ここ」にだけ生きることができたら、過去にとらわれず自由に未来を描くことができたら、きっと子供のように自由闊達に、軽やかに、日々笑って暮らせるだろう。なんて、想像したりする。
 もちろん、良かったことも大切な思い出も同時に消えてしまうことになるけれど、良い思い出より嫌な記憶の方が、深く現在に影響しているような気がする。
 性格のせいか?
 
 この本は、実際に記憶喪失になった青年の体験談。テレビのドキュメンタリー番組にもなったので見た人も多いだろう。(自分も見て、泣いた)

 18歳のときに、乗っていたスクーターがトラックに衝突。意識不明の重体に陥る。集中治療室に入って10日後、奇跡的に目覚めるが、両親のことも、友人のことも、自分自身のことも、何もかもすべてを忘れてしまった。
 
 テレビドラマや小説でも事故で記憶喪失という話はよくあるけれど、過去の数年間だけ空白というパターンが多い。言葉も生活の基本習慣も忘れてしまったら、その先のドラマが続かなくなってしまうからだろう。自分が妄想するのも、このパターンである。トイレのしかたまで忘れるのはちょっと・・・(まだ早い)。
 この著者の忘れ方は、半端でない。エピソード記憶はもちろんのこと、言葉や文字や家族の顔も、周囲にある事物(たとえば信号や植物や鏡や食べ物やお金)の名前や定義や働きも、母、父、死、女、友人といった概念も、顔を洗う、ひもを結ぶ、自転車に乗るといった基本的な生活習慣や技能も忘れてしまう。
 いわば、これまでの人生をチャラにして、赤ん坊からやり直すようなものだ。
 
 五感は正常に働いているから、いろいろな情報は次々と入ってくるのだが、その中で意味のわかるものが一つとしてないという、文字通り言語を絶した世界。
 むろん、我々は誰もみなその状況からスタートし、学習過程を経て、乳児から幼児、幼児から子供へと成長してきたわけだが、それと連動して脳の神経網や自意識や感情も相伴って徐々に豊かに複雑になっていくので、個体の意識や感情にとって耐えられない量や質の情報入力がいきなりあるわけではない。たとえば、「怖い」という感情が育っていない赤ん坊に野犬を近づけたところで、赤ん坊のストレスにはならない。
 しかし、この著者の場合、感情や自意識はほとんど以前のまま残っているので、周囲で見聞きするものすべてが、幼児が世界をはじめて見るのとまったく同じように、新鮮で面白くワクワクするものばかりである一方で、感情や自意識を脅かす多大なストレッサーにもなる。
 著者には悪いが、正直読んでいて面白いエピソードの宝庫である。
 

 興味深いのは、青年にとって、記憶を失った当初から、何より恐れ、気を使っているのが周囲の人間の視線や言動であり、周囲の人間との関係であるという点である。
 文字や言語や物の名前や機能は、脳が正常である限り、時間がたてば再び覚えていくことができる。ある意味、それは機械的作業、コンピュータにデータを入力するようなものである。
 一方、人間との関係は、一回一回その場その場で状況が異なる。同じ相手に対しても、一度うまくいったふるまいが、次にもうまくいくとは限らない。ましてや、相手が変われば別のふるまいが必要となる。しかも、人間関係は自分から相手への一方向ではなく、双方向であるので、相手から何が返ってくるのか予測がつかない。
 相手の顔色を見る、相手の言葉の裏を読む、相手の気持ちを斟酌する、空気を読む、こういうことは試行錯誤を通じて学び、融通のきくマニュアルを蓄積・記憶していくものである。社会生活を送るのに取り戻すべき必要な記憶の中で、もっとも獲得するのが難しいものなのかもしれない。 
  人間はかってに動いて、かってに話しかけてくる。それを目のまえでされたら、なにをするのもこわくなる。だから自分の部屋が好きだった。
 いつものように、あいつ(観葉植物のこと)のまえにすわっていた。すると、まるい物がおいてあるのに気がついた。これはなんだ。こちこち音がするのはなぜだ。形もゆっくりだけどかわっていく。
 ずっと見ていたら、とつぜんすごい音がして、手の中でびりびりゆれた。立ち上がって、もって歩いた。すると、きゅうにしずかになった。これはいったいなんなんだ。人間が作ったものなのか。
 ずっとこいつを見ていると、外がだんだん明るくなってきた。
 人間の声が聞こえてくる。どうしてだろう。ぼくも人間と話したくなってきた。それでかいだんを、おりていった。

 人間が怖いと思いながら、人間と話したいと思う不思議。
 しばらくして青年は大学に復学するが、周囲の学生に時に無視され、時にからかわれ、時にうざったがられながらも、一生懸命周囲に合わせ、溶け込もうとする。
 人間は社会的動物であるという言葉が浮かんでくる。
 
 青年は記憶を取り戻せないもどかしさや、周囲との関係がなかなかうまくいかないことに自暴自棄となって、家出を繰り返す。
 彼を献身的に支え見守った母親の手記。

 記憶を失くすということは、単に過去を忘れて今を生きるということではないのです。過去を失った人間は、こんなにもろいものかと、優介を見てつくづく思いました。

 優介は、本当に過去18年間の記憶を取り戻したくて仕方がありませんでした。誰だって365日、すべての記憶があるわけではありません。だから私は、昔にこだわるよりも、今日から何かを始めればいいと言いました。でも優介は、「今まで何をしようとしていたのか知らなければ、前に進むことができない。それを知らなければ生きている意味がない」と言うのです。

 ・・・・ぬあるほど。
 「今ある自分」というのは、過去そのものなのだ。過去をなくすということは「自分」をなくすということなのだ。そして、未来は過去の投影なので、過去をなくすと同時に未来もなくしてしまうのだ。過去の経験をもとに未来をつくっていく。人間が時間の中を生きるというのは、そういうことなのだろう。
 記憶喪失って、そんなに甘いもんじゃないのである。

 実は、自分の記憶喪失願望もナンセンスなのである。
 たとえ望み通りに過去の記憶を失ったとしても、そのときには「チャラにしたい」と思ったその過去の出来事と一緒に、そのとき受けた負の印象や感情の記憶さえも消えてしまっているわけだから、結局、失われた記憶があるという事実に不安といらだちを覚えることになり、何とか取り戻せないものかと必死になるだろうからだ。
 これを「記憶喪失のパラドックス」と言う。(言わないか)

 青年の記憶はついに戻らなかった。部分的に、瞬間的に戻ることはあっても、アイデンティティとしての過去の「自分」を取り戻すことはできなかった。
 どうなったか。
 結局、事故に遭ってからの日々を自らの過去として、そこを土台に新しい人生を築いていったのである。青年は、大学で絵や染色を学び、今は自ら設立した工房で草木染めをしている。その作品は、生命の力強さを感じさせる見事なものである。 

 今いちばん怖いのは、事故の前の記憶が戻ること。そうなった瞬間に、今いる自分が失くなってしまうのが、ぼくにはいちばん怖い。ぼくは今、この十二年間に手に入れた、新しい過去に励まされながら生きている。

 人間って不思議だなあ~って思わせてくれる一冊である。