12月8日、みらい座いけぶくろ(豊島公会堂)にて。
 
 声明とはお経に節をつけたもの。空海が伝えた真言声明、最澄が伝えた天台声明のほか、各宗派で伝統的に受け継がれてきた声明がある。
 当日パンフレットによると、声明と音楽の共演は本来珍しいものではなく、東大寺大仏の開眼供養会(752年)において、一万人の僧侶が雅楽や伎楽と共に声明を披露したという。しかし、近年の仏教寺院は音楽を閉め出してしまったので、今回の「馨奏一如」はまさに声明が本来持つべき音楽的原点への回帰なのである。

 高野山と題したところからわかるように、今回の声明は真言宗の法会の形式を軸としたものである。全国から集まった真言宗の僧侶たちが唱える声明と、二胡や尺八や箏や和太鼓といった伝統楽器、ギター、パーカッション、キーボードといった現代楽器とのコラボレーションである。

 結論を言うと、読経本来が持っている力―清らかさ、荘厳さ、ありがたさ、凛とした美しさ、空気を震わせ場を浄化する力など―の大半が失われてしまい、代わりにオーケストラを聴いているかのような音楽的壮麗さ、重層性、華やかさ、迫力があった。声明か音楽か、という点では音楽の方が勝っていた。というより、全体に音楽としての出来映えを優先したのではないかと思う。そこでは声明もまた、楽器の一つにすぎないという感じであった。
 これは監修者(山崎篤典)の考えなのかもしれない。声明を唱える僧侶たちが若年ばかりであったことによるのかもしれない。(たしかに、音楽をつけない声明だけを聞くと、若いだけに張りのある声は気持ちいいのだが、心境の深さようなものは感じられなかった。) あるいは、鋭角的な強い響きを持つ現代楽器に引きずられてしまうせいなのかもしれない。
 個人的には、もう少ししっかり声明そのものを聴きたかった。
 しかし、プログラムのメインを飾った「般若心経」などは、もともとのお経そのものがきわめてリズミカルで歯切れ良く、また構造もダイナミックで呪文というクライマックスも用意されているので、そういった特徴が音楽との融合により増大される結果となり、華々しい効果が見られた。

 客席は高齢者が圧倒的。

 自分の精神はすでに老後にいるのか。