怒らないこと2012年最初に読んだ本。

 自分もかなりのスマナファン、もといブッダファンであるのは認めるにやぶさかでない。

 この本はベストセラーとなった『怒らないこと』の続編であり、この本自体もベストセラーとなった。
 そのことにちょっと驚いた。
 スマナ長老のいずれかの著書が遅かれ早かれベストセラーリストに載るであろうことは予想していたが、それが『怒らないこと』であるとは思わなかった。
 世の中の人は、それほど日々「怒って」いるのであり、怒る自分を「どうにかしたい」と思っているがゆえのベストセラーなのであろうが、周囲がそんなふうであるとは思っていなかったのである。
 一昔前は、路上でも電車内でも飲み屋でも顔を真っ赤にして怒っている人、声を荒げて喧嘩している人を頻繁に見かけたものであるが、ここ最近目にすることがほとんどなくなったし、職場を含む自分の周囲で感情をむき出しにして怒る人も少ない。引きこもりがちな自分の生活のせいもあろうが、日本人はよく言えば「冷静に、我慢強く、おとなしく」、悪く言えば「無感情に、内向的に、臆病に」なっているように思われる。
 なによりも自分自身、最近ほとんど「怒った」という記憶がない。

 愚痴を言う、ケチをつける、皮肉を言う、批判する、イライラする、ムッとする、あきれる、ということは多々ある。これらも、もちろん「怒り」には変わりない。が、自分の中で抱えきれなくなるほどの感情には肥大しない。直接的にその原因となった対象に向かって、感情的なふるまいとなって跳ね返ることもない。暖炉に花瓶を投げつけたスカーレット・オハラや、ちゃぶ台をひっくり返した星一徹がよほど新鮮である。
 自分の中に怒りをため込んで、便秘状態になっているのに、そのことにすら気づいていないのかもしれない。いや、もっと悪いことに、行き場のない怒りのエネルギーが自己破壊に向かっている可能性だってある。
 くわばら、くわばら。

 大体、昔から他の人が「怒り」を感じるような場面で「哀しみ」を感じることの方が多かった。
 また、怒ってもそれが長続きしない。怒りの感情を自分の中に持ち続けている気分の悪さに自分自身が参ってしまうからだ。復讐や敵討ちは自分には向かない。愛する家族を殺害された遺族が、犯人の死刑を求めて、何もかも投げ打って残りの人生をかけて闘いに身を投じる姿は、無理もないと思うし、事件の真相と犯人への適切な処遇を求めることには大いに同感するけれど、怒りという原動力でそれをやり続けることは自分にはおそらくできないだろう。
 怒るのにも才能があるのかもしれない。

 自分にとって問題の多いのは、いつでも「怒り」よりも「欲」であった。
 欲に振り回されて、ずいぶん人生を棒に振ってきたと思う。まあ、「人生とは結局、欲に振り回されることである」と言えないこともないが・・・。

 であるから、この本の中で、スマナサーラ長老がこう述べているのにヒヤっとさせられた。

 「怒り」のバージョン違いに「欲」というものがあります。「苦」を感じると「怒り」が起こりますが、そのとき、「これがなくなってほしい、こうなってほしい」と希望します。この「ほしい」に焦点のあたった感情が「欲」です。
 たとえば、お金がない状態でいるとします。「なんでお金がないんだ」と思っているあいだは怒りの感情です。それが、「大金持ちになりたい」というふうに先を意識すると「欲」になります。今の状況・現実に焦点をあてると「怒り」です。その現実がなくなった状況を妄想すると「欲」です。現在を見るか、将来に期待するかという差で、怒りか、欲が生じるのです。

 つまり、自分には「怒り」が少ないのではなくて、「怒り」が「欲」に変じているだけということだ。しかも、現実を見ていないというおまけまでつく。
 う~む。とすると、「怒り」を長く抱えていられない性分が、かえって「欲」を強めているのかもしれん。

 新年早々のショック。