くじけないこと こういうタイトルの本を書店で手に取り買ってしまったのは、自分が今まさに「くじけ」そうになっているからである。
 「何に?」と言えば、現在通っているホームヘルパー2級を取るための介護の学校というかカリキュラムにである。


 初めの頃は、何十年ぶりかの学校生活にワクワクし、はじめて知る介護の世界にも、世代の異なる様々なバックグラウンドを持つクラスメートにも新鮮な思いを感じ、そこそこ張り切って通っていたのだが、だんだんしんどくなってきた。


 原因の一つは、体力・気力の低下である。
 6時間同じ教室に閉じ込められて机に座っていること(もちろん休み時間はある)が、これほどしんどいとは思わなかった。よく中学・高校時代は来る日も来る日もこれをやっていたなあと感心する。その上、放課後には部活動なんかもやっていたのだから、元気がありあまっていたのだろう。
 当初は、授業がすんだら週二回はジムとプールに通って体力づくりを、週一回はボランティアを、などと目論んでいたのだが、ひと月もせずに挫折してしまった。
 とにかく、疲れるのである。
 頭はぼうっとして授業がなかなか吸収できないは、目は老眼入ってきてしょぼしょぼするは、肩は凝るは、腰は痛むは、風邪はひくは、満身創痍である。夜になると、両足にびっしょり汗をかいて夜中に起きてしまう。朝目覚めてもすっきりしない。どころか寝る前より疲れを感じている。更年期障害なのかもしれない。
 年を取ることのしんどさをまさに自分の体で学んでいる。

 もう一つは、集団生活の息苦しさ、うざったさである。
 もともと集団生活は苦手だったのだが、どうも忘れていたらしい(苦笑)。
 自分と同年代が半分、自分より若いのが半分くらいのクラスであるが、若者のノリについていけない。ついていきたいとも思わないし、ついていかなければいけないわけでもないが、授業中の私語はあたりまえ、実技でのおふざけはあたりまえ(ふざけすぎて設備の一部を壊したりする)、まるで中学校からそのままやって来たような感じなのである。「男っていつまでたっても子供?」なんて目を細めているレベルじゃない。
 見ているとどうも、今の30代あたりを境目に授業態度が変化しているような気がする。確かに40代の自分の学生時代はまだ先生の力が効いていて、授業中は簡単に私語できない空気があった。今の先生は本当にたいへんだろうなあ~と思う。
 小中学校とは違って、誰に強制されたではなく、自分から望んで介護を学びに来ているのだから(就職につながる死活問題なのだから)ちょっとは真面目に学べばいいのに・・・というのは通用しない。真面目とか真剣であることが「カッコ悪い」という風潮があるようだ。
 おそらく、彼らが生まれた頃から「お笑い」ばかりになってしまったテレビの影響が強いのだろう。何かにつけ冗談を言わなければならない、ウケなければならない、沈黙に耐えられないというある種の強迫観念に支配されているかのように思われる。
 一方で、いわゆる「空気を読む(KY)力」はなるほどたいしたものである。周囲の状況や雰囲気をとっさに読んで、そこに自分を合わせていくのがうまい。孤立しないように、浮かないように気を使う。

 こういった力学が作用している教室の中では、本当に重い悩みを抱えている人やマイノリティは生きづらいだろうなあ~と推測できる。いや、実際には、誰もが何らかの悩みや不安を持っているはずなのだが、そうした他人の暗さや重さや弱さと向き合うスキルというか根性というか耐性を欠いているような気がする。それは、逆に言うと、運命のいたずらで自分がもしそういう立場になったとき、非常に弱いということだ。自分自身の重さや暗さと向き合うことができないし、周囲を信じ助けを求めることもできないからだ。
 そう言えば、ちょっと前にNHK教育テレビで「一番の親友には自分の悩みを打ち明けられない」という十代の声を聴いた。むしろ、顔も名前も知らないネット上の相手のほうが安心して何でも相談できるのだという。
 老人介護なんて、つまるところ人の弱さ・暗さ・重さと向き合う仕事だと思うが、大丈夫なんだろうか?

 とは言うものの、そうした息苦しさ、うざったさを感じてしまうのは、自分もその力学の中に埋没している証拠である。私語を注意するでもなく、おふざけをたしなめるでもなく、クラスの中で「どこまで自分を出すか」考えている自分がいる。
 やれやれ・・・。 


 くじけることは、自分の考えたこと、あるいは思い込みにしがみついた瞬間に起こります。なぜなら、物事はもともと思い通りにいかないものだからです。
 では、自分の思考から、どのように離れればいいのでしょう。
 思いつめて出した結論ではなく、客観的に自分の立場や考え方を捉えてみることです。そうすると、今まで見えていなかった解決策が見つかったりするものです。

 この世で何が完璧ですか。変わらないものなんかが、何かあるでしょうか。不完全な自分が、不完全な知識で、不完全なデータに基づいて、最終判断して安心するとは、どういうことでしょう。
 人生は「とりあえずの判断」にしましょう。これが、くじけない方法です。


 はっきり言います。無常を認める人にとっては、衰えて死んでしまうことも楽しい出来事です。


 すべてが無常であることを知り、楽しみがその瞬間ごとのものであることが理解できれば、すべての変化を受け入れられるようになります。無常を知る人は、決してくじけません。


 キーワードはやはり「無常」。
 固定的なものは一つもなく、すべてが変化する。
 うまく成し遂げたところで、それもまた崩れる。
 失敗したところで、それもまた過ぎ去る。
 人との出会いも然り。

 考えすぎるからくじけそうになるのだろう。
 結果にこだわるから不安になるのだろう。
 自我を張るから疲れるのだろう。
 目の前のことをできる範囲で、結果に頓着せず、できれば楽しんで、片付けていくよりない。