なぜ、脳は神をつくたのか なんと言っても本のカバーに記された著者プロフィールの量に圧倒される。
 老眼には厳しすぎる細かいポイントで43行×25字=1000字びっしり、苫米地氏の輝かしい経歴とこの世における成果の数々がここぞとばかり刻まれている。同じようなプロフィールは、ドクター中松と深見東州に見た覚えがある。
 だからなんだ、というわけではないが、自身をここまでアピールする人間に反感とは言わないまでも胡散臭さを感じてしまうのは、日本人である証拠だろうか。それとも単なる羨望か。こういった燦然としたプロフィールを見ると、イソップに出てきた他の鳥の羽根で自らの体を飾り立て自慢していたカラスの話を思い出すのである。
 いずれにせよ、著者のなんたるかはその著書が何よりも語ってくれよう。

 一読、苫米地氏の言っていることには同感できるものが多かった。(なんのこった!)
 自らの主義主張を押しつけるというものでは全然なく、客観的・論理的に神とは何か、宗教とは何か、宗教の役割とは何か、といったことを、いくつかの興味深いエピソード(広島・長崎に原爆を投下したエノラゲイには実は乗員達の心の安定をはかるべくカトリックの神父が乗っていたなど)を織り交ぜ、分かりやすく説明している。

 著者の意図はどこにあるのか。

 本書では、
・ なぜ、人は宗教(信仰)を求めてしまうのか?
・ なぜ、幸せを求める信仰心が人殺しにつながるのか?
これらのことを、脳科学、認知科学、分析哲学の視点から解明し、これからの時代、宗教に頼らなくてもいい幸福な生き方を探っていきたいと思います。

 
 著者は、人が宗教(信仰心)を求めてしまう3つの理由を挙げている。

① 人間が(自分自身が)不完全な情報システムであることを自覚して、完全な情報システムに対する憧憬や畏怖の念が生まれるから。
② 自分が持つ自我と情動を祖先から受け継いだものととらえ、祖先崇拝(シャーマニズム)が生まれるから。
③ 死への根源的な恐怖によって、死後の世界に対する何らかのストーリーが生まれるから。 

 完全な情報システム(=神、主義、思想)に対する信仰心が宗教現象を生み出していくが、組織化した宗教は政治や戦争に利用され、世の中を混乱に貶めていく。キリスト教徒もイスラム教徒もそれぞれの「神の名のもとに」闘って殺戮を繰り返している現況を見れば、宗教というものが人類にとっていかに愚かな、危険なおもちゃであるかが分かろうものである。

 苫米地はそこでニーチェばりに「神は死んだ」と述べ立てる。
 いや、苫米地が血迷って勝手にほざいているのではない。現代数学でそのことが証明されていると言う。

 宗教哲学者のパトリック・グリムは、1991年にグリムの定理を発表し、神は存在しないと証明しています。
 彼の証明は、数学で記述されているのですが、簡単に言葉でまとめれば、「神を完全な系として定義するとゲーデル=チャイテンの定理により、神は存在しない」という非常にシンプルなものです。

 グリムの定理が発表された1991年は、神が正式に死んだ年だといわなくてはなりません。

 次なる疑問はこうなる。

 我々は神(信仰心)なしで生きられるのだろうか?

 ここで苫米地が持ち出してくるのは、釈迦=仏教である。

 およそ2500年前に、釈迦は、「ブラフマンはいない」と唱えました。人々がみな神を信じ、その権威のもとに生きていた時代に、その存在を真っ向から否定したのです。

 ブラフマンとは、当時インドで支配的であったバラモン教において「宇宙の根本原理」とされる究極で不変の存在である。

 釈迦は、神を否定した結果、人々が神を必要とする理由を全部解決してしまいました。
 神を必要とする理由のひとつは、部分情報である人間が完全情報に憧れることです。そこで、釈迦が「完全情報はこの世にありません」といえば、あこがれは消えてしまいます。
 また、死を恐怖する人に対しては、「死んだら、その怖がっている君はいないんだよ」の一言で終わりです。


 釈迦の教えは、神が人間に寄せる無条件の愛といった、人間の心に強烈に突き刺さる幻想を売り物にはしていません。むしろ、人間にまとわりつくそうした幻想を徹底的に剥ぎ取り、その足かせや頸木から自由になることを教えています。
 その意味で、宗教的には非常に貧弱かもしれませんが、神の存在が科学によって正式に否定されたいま、思想的には非常に強烈な生命力を放ちつつあります。

 まさに革命的なブッダの思想は、今もテーラワーダ(いわゆる小乗仏教)に伝え続けられているが、その昔根本分裂によって分かたれ生まれた大乗仏教が、中国を経て日本に到来する間に、いかに変貌したか、なぜ変貌したかを分析している章は非常に面白い。日本の仏教では読経と苦行が重視されているが、そのどちらもブッダは重視しなかった。ブッダが出家達に勧めたのは瞑想であるが、この肝心な瞑想のノウハウは日本には伝えられなかったのである。

 さて、人々が宗教にたよらない世界、精神的に完全に自由である世界、絶対的な唯一の価値が存在するという幻想が否定された世界において、なにが一番大切か。
 苫米地は語る。  

 私が真っ先にイメージする世界は、餓死する人間が1人もでない世界です。
 日本国憲法をはじめ、たいていの国の憲法で保障されていることに、生存権があります。これをまず。世界的に保障することです。
 そして、もうひとつ必ず保障しなければならないのは、機会の均等です。

 ここにいたって、苫米地英人という人物が極めてグローバルな視点を持つ、博愛主義者であることが知られる。
 プロフィールの長さだけのことはある人なのかも・・・・・。