人が仕事に関して抱える様々な悩みについて上座仏教(テーラワーダ)の立場から回答したものである。
すなわち、ブッダならこう答えるだろう。
この本を手にしたのは、自分が一ヶ月ほど前から介護という新しい職種、老人ホームという新しい職場に飛び込んで、いろいろなストレスを感じている真っ最中だからである。
仕事を覚える大変さ、同僚や利用者の顔と名前を覚える大変さ、職場の雰囲気に馴染むまでの緊張感、次第に見えてくる人間関係とそこへの配慮、何もできないことの焦りと苛立ち、年下の先輩から叱りつけられる情けなさ・・・・。転職にあたって予想はしていたので「まあ、こんなものだろう」と思うくらいの余裕はあるが、何度重ねても新しい仕事、新しい職場に馴染むのは一苦労である。
そう。いつの間にか転職の多い人生になってしまった。
アルバイトも含め一年以上続いたものをピックアップすれば、これで7回目となる。40代後半という年齢ではきっと多いほうだろう。一番長く続いたもので8年ちょっとである。
「転がる石に苔生さず」ということわざは良くも悪くも解釈できるというが、自分はどっちだろう。
振り返ってみると、自分の転職は常に人生のリセットのようなものであった。積み上げてきたすべてをチャラにしてゼロから再スタートするみたいな。前職で蓄積された経験や技術を踏み台にして次の職場を選択するという考えがハナからないし、一つの職場を辞めるときに次の職場が決まっていたことも一度もない。
だから、仕事と仕事の合間には無職の日々が入る。失業保険や退職金で生計を立てながら、人生の中休みとかうそぶきながら次の仕事を探すのである。綱渡りの人生、というよりも空中ブランコの人生である。
よくまあ、やって来られたなあと思う。
一つには、養うべき家族がいないことがある。自分一人を食わせれば良いので腰が軽いのだ。
一つには、地位や名誉や贅沢には関心がないことがある。金のかかる趣味もないので、生活保護レベルの収入があれば快適に暮らせる。
将来への不安、老後の心配はあるにはあるが、こればかりは金があっても家族があっても決して安泰できるわけではないと知っている。むしろ、健康が重要である。いまのところあちこちにガタは来ているものの、まずまず健康と言える。
一つの職場である程度働いて仕事をそれなりにこなせるようになると、どういうわけか次に駒を進めなければという思いが募ってくる。「ここで自分ができること、やるべきことは終わった」という声が胸の奥から聞こえてくる。そうなると、次なる道も確かに見えていないのにリセットボタンを押してしまうのである。
それは、思慮の結果ではなく、直感に近い。
世間一般からすれば、愚か者なのだろう。
しかし、この年齢になって気づいてきたのだが、個々の間では一見何の脈絡もないように思われる過去の仕事やそこで得た経験の一つ一つが、こうやっていくつか揃ってみると、ジグゾーパズルのピースが埋まっていくように一つの大きな絵が浮かび上がってくるような気がするのである。
その図柄が何かはまだ明瞭にはなっていないが、「こうなるべくしてなったんだな」という受容の気持ちは、過去の自分、今の自分を肯定する力になる。
思考よりも直感のほうが賢いのかもしれない。
さて、新しい職場に飛び込むときは、自分をサラにして臨まなければならない。過去の仕事で得た地位や肩書きやプライドは邪魔にこそなれ役には立たない。それを振りまいていたら新しい職場に馴染むことはできまい。人間関係もうまくいくはずがない。
新人というのは、何でもいいから勉強し、少しでも役に立つ人間になれるよう、ひたむきに努力しなければなりません。
新人が我を張って「ああだ、こうだ」と不満をいうなど、あり得ない話なのです。
人に何かを教わるときは、そのくらい徹底した意識が必要です。学校を卒業したら、もう学ばなくていいとでも思っているのでしょうか。
そんなことは絶対にあり得ません。
生きている限り、一生学び続ける。それが、人間の本来の姿です。
幾つになっても学ぶことができる。誰からでも学ぶことができる。
その幸せを噛みしめなければいけないなと思う。
ブッダの教えは常に心強い指針となる。