120624_1232~01●6月24日(日)晴れ、時々曇り

●ルートとタイムスケジュール
08:11 西武線・西武秩父駅着
08:24 小鹿野町営バス乗車
09:10 薬師堂バス停着
      歩行開始 
      法養寺薬師堂~両神神社
       ~花しょうぶ園
10:30 展望休憩舎
10:45 両神神社奥社
11:00 四阿屋山頂上着
11:15 下山開始
12:30 観景亭
      昼ご飯
13:00 両神神社着
      歩行終了~薬師の湯
16:10 西武秩父駅着

●所要時間 3時間50分(=歩行3時間+休憩50)


 手持ちのブルーガイドで四阿屋山は「花といで湯の秩父路」と紹介されている。
 まさにその通りの山であった。
 梅雨のこの時期、あじさいと菖蒲とあざみが目についた。

 バス停のそばにある薬師堂と両神神社に道中の安全を願ってウォーキングスタート。
 神社の裏手の道を進むと、満開の菖蒲が一面に咲き誇っていた。
 1万株100種あるという。
 見物客も結構来ていた。

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 じっくり菖蒲を堪能したあとは、いよいよ登山口に取りつく。
 さほど急でない歩きやすい山道を、それでも汗をびっしょりかきながら登っていくと、1時間そこらで立派な展望休憩舎に着く。三角の大きな屋根によって、三角に切り取られた景色の中に、武甲山はじめ秩父の山々が青い空をキャンバスとして並んでいる。曇りがちなため、すっきりと見えなくて残念。
 長い木の階段を登って、両神神社の奥社に到着。さすがに静かで落ち着いた雰囲気が漂っている。

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120624_1121~01 ここからがお楽しみ。
 山頂まで急な鎖場が続いている。転落事故も起きているという。
軍手の出番だ。
 しっかり鎖を握って、足の置き所を確認しながら一歩一歩慎重に登っていく。 

 頂上到着!


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 頂上は狭くて昼食を食べるほどのスペースもないので、眺望だけ楽しんだら早速、下ることにした。
 さっきの鎖場を下りていく。もちろん、上りより下りの方が恐いし、事故も起きやすいのである。

 奥社まで戻って、別ルートを取る。

 梅雨の晴れ間の日曜なのに、あまり登山客はいない。登り途中で出会ったのは5、6名くらいか。ここまで来たら、むしろ両神山を目指すのが一般なのかもしれない。
 誰もいない森の中で目を閉じて、風が梢を揺らす音と鳥の声に耳を澄ます。
 気持ちが落ち着いて、幸福感がゆったりと広がっていく。
 「ほんとうに、これだけあれば十分だよな~」という気持ちになる。
 自然と、健康と、独りを楽しめる心と。


120624_1227~01 六角形の中華風あずま屋「観景亭」で景色を楽しみながら、昼食にする。
 梅おにぎりと、ゆで卵と、いんげんの白みそ煮。
 こんな埼玉の田舎になぜ中国風の建物が?と思うけれど、それは埼玉県と中国山西省との友好の印らしい。麓には「神怡舘(しんいかん)」という友好記念館がある。

 平成4年、埼玉県と山西省の友好締結10周年を記念して建てられました。正式名称は「埼玉県山西省友好記念館」。山西省の歴史、自然、文化等資料の展示や交流事業などを実施しています。外観は寺院建築風の造りで、館内では山西省を中心とした中国文化を紹介しています。 
 神怡とは、北宋代の政治家・范仲淹(はんちゅうえん)が書いた『岳陽楼記』にある一節「心曠神怡(しんこうしんい)」に由来。「心がひらけて気持ちが和らぐ」という意味。
(神怡舘ホームページより
http://www.chugen.net/sin_ikan/index.html

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 時間が許せば行きたかったけれど、やっぱり温泉が優先だ。薬師堂バス停から歩いてすぐの「薬師の湯」に浸かる。残念ながら露天はない。どういうわけか登山帰りの若者が多かった。最近の若い子(特に男)は自然派志向なのかな?

 一日の締めのビールはたまらない。


 ところで、山登りをしていると、いつも思い出す古典がある。
 鎌倉時代の兼好法師の書いた『徒然草』の第109段、「高名の木のぼりといひしをのこ・・・」で始まる一節である。

 木登りの名人と言われている男が、人を指図して高い木に登らせて梢を切らせていたときに、とても危なく見えるうちは何も言わず、降りてくるとき軒の高さくらいになったところで、「けがをするな。注意して降りろ」と言葉をかけたので、それを見ていた私が「これくらいの高さであれば、たとえ飛び降りたとしても降りられよう。どうしてそう言うのか」と聞いたところ・・・・

「その事に候(さうら)ふ。目くるめき、枝危きほどは、己(おのれ)が恐れ侍れば申さず。あやまちは、やすき所に成りて、必ず仕(つかまつ)る事に候ふ」といふ。
  
「そのことでございます。高くて目がくらみ、枝が折れそうで危ない間は、自分で恐れて用心しますから、注意しろとは申しません。けがは、安全な所になってから必ずするものでございます」と言う。

 山登りも同じである。
 危ないところを過ぎて、「もう安心。もう大丈夫」と気を抜いた時に、転んだり、滑ったりする。
 
 高校時代の授業で習ったことの中で今も役立っている数少ないことの一つである。