2011年アメリカ映画。

 SF恋愛サスペンス映画。原作はSF作家フィリップ・K・ディックの短編『調整班』。

 『ブレードランナー』(1983)の成功以降、フィリップ・K・ディック(以後FKD)の作品は次々と映画化されている。主な物を挙げると、

 トータル・リコール(1990) 主演アーノルド・シュワルツネッガー
 マイノリティ・リポート(2002) 主演トム・クルーズ
 ペイチェック消された記憶(2003) 主演ベン・アフレック
 NEXT―ネクスト(2007) 主演ニコラス・ケイジ

 現在もいくつかの作品の映画化が予定されているらしい。まさに「今が旬」の作家なのである。
 しかし、FKDは『ブレードランナー』の公開直前に53才の若さで亡くなっている。生前は本が売れず貧乏であったという。一面識もなかった同じSF作家のロバート・ハインラインに援助されたというから面白い。
 ヴァン・ゴッホ同様、彼の書いた物は時代に早すぎたのである。著作権を有する遺族にとっては、まことにラッキーな展開であろう。

 FKDの早すぎたテーマとは何か。
 ウィキペディア「フィリップ・K・ディック」から引用する。

 何らかの強力な外部の存在によって、あるいは巨大な政治的陰謀によって、あるいは単に信頼できない語り手の変化によって、日常の世界が実際には構築された幻影だということに主人公が徐々に気づき、超現実的なファンタジーへと変貌していくことが多い。こうした「現実が崩壊していく強烈な感覚」は「ディック感覚」と呼ばれている。

 この『アジャストメント』もまさに「ディック感覚」そのものである。
 主人公デヴィッド(マット・デイモン)はある日、この世界が「運命調整局」と名乗る謎の集団によってコントロールされていて、世界の時空も一人一人の人間の運命も彼等によって自在に調整・操作されている、という驚愕の事実を知ることになる。人類は外部の手によって操られており、人間に選択の自由など始めからないのである。
 この事実を知ることは、足元の大地が突如として消失するくらいのショックをもたらすであろう。(自分ならまず精神科に行くがな・・・)
 そこからデッヴィドがどう生きていくかというところに、観る者は付き合わされることになる。

 小説にしろ映画にしろ、SFというものは荒唐無稽の大ボラが前提としてある。
 大ボラを、科学的(客観的)な装いと細かなリアリティの積み重ねによって、いかにして読者(観る者)に受け入れさせるか、作者がこしらえた虚構世界とその世界にのみ通用する恣意的な法則の中で、いかにして人間ドラマを活気づけ、感動に結びつけていくかが、SFの基本スタイルである。
 過去の有名なSF映画を並べると、この基本スタイルは明瞭である。
『猿の惑星』『エイリアン』『スター・ウォーズ』『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』『アルマゲドン』・・・・・。
 どれも人間の通常の生活世界とは(時間的あるいは空間的に)離れたところに、まったく様相の異なる違った世界が存在し、何の因果か後者に入り込んでしまった主人公達が、新しい世界の驚異や脅威に(観る者と共に)直面し、新しい世界での法則を痛い思いをしながら学びつつ、通常の生活世界においてはあまりに当たり前でありすぎるが故にその大切さを忘れてしまいがちな人間ドラマ(家族愛、恋愛、友情、命の大切さe.t.c.)を甦らせるのである。
 その意味では、人間ドラマをより深く、より強く、より新鮮に描くためのシチュエーションとして、SFという仕掛けはあると言えなくもない。非日常の空間においてこそ日常的なことの有り難さが痛感されるのは、誰もがよく知っている。

 問題はこの仕掛けである。

 先に掲げた過去の有名なSF映画と、FKDの作品、あるいは昨今よく作られる時空操作系のSF映画とでは、この仕掛けの仕掛けられる場所に違いがある。
 過去の作品では、仕掛けは外側に作られていた。『猿の惑星』や『エイリアン』や『アルマゲドン』では地球の外(宇宙)であったし、『スター・ウォーズ』や『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』では現在という時間の外(過去や未来)であった。主人公達の通常の生活世界とは時空が違うのである。
 仕掛けが外側に作られるということは、別の観点で言うと、主人公達は別世界に行っても、自らのアイデンティティを保っていられるのである。「自分」はそのままで、自分を取り巻く「環境」が変化するのだ。
 『猿の惑星』のラストシーンがかくも衝撃的なのは、主人公(チャールトン・ヘストン)が人間としてのアイデンティティ(自我)と誇りとを最後まで高く保ったまま、猿が支配する異世界を生き抜いたからである。

 一方、FKDの作品らは、仕掛けが内側にある。
 つまり、「日常の世界が実際には構築された幻影だということに主人公が徐々に」気づいていくところが、一番の見所となる。この系統の一番わかりやすい代表的な例は、FKD作品に影響を受けたウォシャウスキー兄弟(姉弟と言うべきか)が撮った『マトリックス』(1999)である。「虚構」は外にあるのではない。「私」が虚構なのだ。
 主人公の生活空間、意識、存在そのものが虚構であると曝かれた時、信じられる確かなものは何一つなくなる。自分の意志の存在を疑わざるを得ない主人公にとっても、物語を観る我々にとっても。
 ある意味、これはクリスティが『アクロイド殺し』で仕掛けたトリックに通じるところがある。かのトリックはフェアかアンフェアかで議論が巻き起こったけれども、少なくともアクロイド殺しの犯人は誠実な、客観的なタイプの人間であった。あれがもし、生来の嘘つきというキャラクターであったら、フェアもアンフェアもないだろう。その時点で、読者はクリスティを見放しただろう。それでは、推理小説という物語が成り立たないからである。
 何が言いたいかというと、主人公のアイデンティティ(自我)が完全に崩壊した時点で、彼の主観を軸とする物語は成り立たないはずなのである。たとえは悪いが、強度の認知症の老人のラブストーリーを想像してみてほしい。
 そしてまた、「『私』を含み、すべてが幻想だ」と知り尽くした人間は、もはや既存の物語に没入して楽しむことなどできない。

 「個体発生は系統発生を繰り返す」ではないが、「自我」の芽生えと「物語」の誕生は、おそらく、人類史的にも、個人史的にも、同時であろう。体験をエピソードとして記憶に残すために「自我」が生まれたという説もある。(→ブログ記事参照『受動意識仮説の衝撃』http://blog.livedoor.jp/saltyhakata/archives/4977087.html )
 ならば、「自我」の終焉と「物語」の終焉も、同時であろう。
 
 『マトリックス』もこの作品も、アイデンティティ崩壊後に、主人公が「人間の尊厳をかけて」外部組織にあらがう様が描かれていくが、時空をコントロールし運命を司る存在(神でも宇宙人でも銀河委員会でもなににせよ)に対して、いったい何ができよう。「あらがう」という意欲や行動でさえ、すでに自らの意志ではないではないか。
 『マトリックス』の主人公ネオ(キアヌ・リーブス)は、人工知能による文字通りの「洗脳」から目覚めて、仮想現実から脱出し、人工知能との闘いを開始する。その様子は、血も涙もない(当たり前だ)コンピュータに対する人間の尊厳を誇らかに謳っているように見えて、観る者はネオとその仲間達を熱狂的に応援することになるけれど、3部作に至ったストーリーすべてが、いまだカプセルにいるネオの脳内における仮想現実ではないという保証を、我々はどこに求めたらいいのだろうか。


 物語が成立しない領域に、無理して物語を生もうとしている。
 その無理強いが、この映画をアンバランスなものにし、未消化な、調整を誤った(ミスアジャストメントな)感じだけが観賞後に残される。

 FKDの作品の映画化は扱いに気をつけないと、同じ失敗に陥るであろう。




評価:C-

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
        ヒッチコックの作品たち

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」
        チャップリンの作品たち   

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」
        「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!