「老い」と「死」について語らせたら、ブッダの右に出る者はいない。仏教の独壇場である。
もちろん、ここで言う仏教とは、大乗仏教ではなく、ブッダの教えをそのままに今に伝えるテーラワーダ仏教のことである。
その意味では、このスマナサーラ長老の新著は、「無常」や「無我」についての著書と並んで、まことの仏教の何たるかを端的に伺い知ることができる恰好の本であり、また、高齢化社会を突き進んでいく我々日本人にとって「待ちに待った」本と言うことができよう。
正直のところ、仏教思想の中にしか、人類が「老い」や「病」や「死」と敢然と向き合い、従容として受け入れ、なおかつ幸福でいられるための秘訣は他に見つかるまいと思っている。再生医療やクローン技術にいくら期待をかけても、それがいくら進歩しようとも、光の壁を突破できないのと同様、「老病死」の壁は乗り越えられまい。技術の進歩は決して幸福にはつながるまい。そのことが未だに分からない有様を「無明」と言うのだろう。
この本を、各市町村の役所は、地域に住むお年寄り達に敬老の日のプレゼントとして贈呈したらどうだろうか。あるいは、介護保険の被保険者(65歳)となった記念に・・・。
それは冗談だが、自分は、次に帰省した際、年老いた両親に読んでもらうべく、置いて帰るつもりである。
以下、引用。
お釈迦さまはこう言っています。
「年をとる、老化する、死に向かって生きていくという現実を素直に認め、認識できる人こそ、この世でもっとも幸せに生きられる人である」
幸福とは、凪いだように穏やかな心のことです。何を映しても動揺しない鏡のように、波一つない水面のように、平穏な心を育てることが、人にとって真の幸福なのです。
親のために子供ができる最大の孝行は、「道徳的で清らかな執着のない心を持って最期を迎えられるように親をサポートする」ことに尽きます。
「悟った人は、執着もないまま何のために生きているのか」と聞いてくる人がいます。そんなとき、私はこう答えます。
「目的があって生きているのではなく、ただ死ぬのを待っているだけです」
あなたは、自分の老いや死について考えたいと思い、本書を手にとってくださったのでしょう。もしそうなら、あなたが本当に考えるべきは、やがてやってくるであろう死にどのように備えたらいいのかということではありません。
目の前にある「今」を力強く生きる。
それが最も大切なことです。
仏教では、どんなとき、どんな相手に対しても、事実をありのままに話すことが大切とされています。自分の意志や感情、主張はいっさい挟みません。
本人にはがんの告知をせず、家族がその事実をひた隠しにするようなケースが今でもありますが、それは大変に思い上がった行為であり、本人にとってとんでもない不幸です。
確実にまもなく死ぬ時期がわかっている病気の場合は、なおさら本人に伝えるべきです。残された日々をどのように過ごしていくかを本人の自由に決めさせるのは、まわりの人たちがやらなくてはならない仕事です。
どの言葉も確信に満ちている。日本人が好むあいまいさやぼかしや婉曲的なところがまったくない。まことの仏教とは、切り立った岩壁の如く、かくも激烈なる、毅然たる、劃然たる思想なのである。日本人が仏教にイメージしがちな、「まんまるい、ほんわかした、癒し系の、菩薩風の」ものとは違う。
ところで、老いを語るのに欠かせない要素の一つは「孤独」であろう。
老いて子供は独立し、仕事も辞めて、連れ合いに先立たれ、孤独が道連れとなる日が来る。
これまで孤独と付き合う準備をしてこなかったツケが回ってくるのである。
ふと見ると、無縁社会の「孤独死」がポッカリと口を開けている。
スマナ長老、処方箋はないものでしょうか。
存在とは、天涯孤独です。よいでもなく悪いでもなく、それが命の自然な姿なのです。孤独をなくすのではなく、孤独に慣れることが賢い生き方になるのです。
人生は孤独なものであり、厳しいけれどそれが現実です。現実である以上、生きていくためには、人は孤独に対する「免疫」をつけなければなりません。孤独を、いかに楽しいものにできるかが、その人の人生を決め、さらには次の人生も決めます。自分がひとりになったとき、どうするか。
ひとりになるまいとするのではなく、ひとりになることを大前提にして、人生をプログラムしてください。それは、子育てをどうするか、マイホームの購入をどうするか、出世をどうするかについてプログラムするよりも、ずっと重視すべきことなのです。
仏教では、「気の合う友だちは、ひとりでもいれば十分です」と教えます。それを孤独というのなら、そうでしょう。孤独とは結果的に、必要のないものや余分なものを手放すことだからです。
孤独、恐るるに足らず。
今から「孤独力」を磨いておこう。