驚きの介護民俗学 2012年刊行。

 著者の六車由美(むぐるまゆみ)は1970年生まれ。民俗学者として前途有望な大学職員の職を四十目前にしてなげうって、静岡県東部地区の特別養護老人ホームで介護職員として働いている。
 もちろん、大学を辞めたからと言って民俗学者を辞める必要はない。新しい職場には、昔の生活や風習や伝承などをよく知っている翁、媼がたくさんいる。正史には残らないような、教科書や市町村など公の編纂物には載らないような、知られざる庶民の暮らしぶりや出来事、「忘れられた日本人」の姿を驚くべき詳細さで正確に記憶している人々がいる。
 かくして、介護と民俗学が結合し、著者の提唱する「介護民俗学」が誕生したのである。


 著者は、週に数回、時間を決めて、勤めている施設の利用者の昔語りを仕事の一環として聞き書きすることを始める。


 まず、これがうらやましいというか、理解のある施設だなあ~と思う。
 自分も介護施設に勤めているが、利用者である老人の話をじっくり聴ける機会などないに等しい。
 シフト入りしてから上がるまで、息つく暇もなくやることがある。一日の流れは決まっている。すべての利用者を見守りながら、転倒や誤嚥などの事故なく、業務を円滑に遂行していかなければならない。利用者とのコミュニケーションより業務優先になる。
 たとえ、たまさか手が空く時間があっても、一人の利用者だけに集中することはできない。フロアのどこで何が起こっているのか、どの利用者がどこで何をしているのか、把握していないとならないからだ。職員の見えない死角で車椅子から立ち上がって歩き出し、転んでいるかもしれない。他人の部屋に入って、そこの床に放尿しているかもしれない。
 記録をつける煩雑さも馬鹿にならない。8時間のシフトの内、おそらく1時間近くは記録作成にあてられる。行政の監査や評価、利用者の家族からの問い合わせにいつでも対応できるように、利用者一人一人についてこまかい記録をつけなければならない。バイタル、食事量、水分量、排泄記録、服薬記録、レクリエーションでの様子、入浴時の様子、他の利用者との関わり・・・e.t.c 必死こいて記録をつけている職員の周りで、何か言いたそうな利用者がウロウロしているという光景は日常茶飯事である。
 何が起こるのかわからないのが介護である。みんな何かしらの病気を持っているのだが、ちょっとしたことで体調悪化につながる。ついさっきまで元気に動き回りよく喋りよく食べていた利用者が、突然「熱発」し意識朦朧とし救急搬送になることがある。あるいは、廊下で転倒している利用者の存在を他の利用者から教えられることもある。
 そうなると業務の流れがストップしてしまう。それによって混乱が生じる。他の利用者も不穏になってしまう。
 だから、ほとんどの職員は前倒しに業務を行っていく。手が空けば、次の時間帯の作業でできることを済ませてしまう。突然何か不測の事態が持ち上がっても、業務の流れへの影響が最小限で済むように。
 そんなこんなで、利用者と膝つき合わせて、じっくり会話する時間が取れないのである。
 利用者とマンツーマンで話をする機会があるのは、入浴介助の時くらいである。それも、こちらは介助の手を休めることなく話を聞かなければならない。せいぜい15分が関の山。


 自分は老人から昔の話を聞くのが好きなほうである。
 戦争に行った話、疎開した話、大陸からの引き揚げの話、関東大震災の話、昔の田舎の暮らしの話、貧乏の話、バリバリと働いて日本の屋台骨を支えていた頃の話・・・。同世代の人と話すより好きかもしれない。
 あるいは、一般の日本人とはちょっと違った経歴をもつ人たち―例えば、在日朝鮮人とか元ホームレスとか天涯孤独であるとかーそういう人達がどのような苦労を重ね、どのような辛さを乗り越え、どのような経緯をたどって今日まで辿り着いたかに興味がある。もちろん、ちょっとやそっとでは当人に聞けることではないけれど。
 もっとも、自分の興味は民俗学的なものではない。老人達は長い人生の中で最も印象に残ったいくつかのエピソードを繰り返し語る習性がある。そこから共通して浮かび上がってくるその人の「人生のテーマ」みたいなものを推察するのが面白いのである。いわば、スピリチュアル的興味といったところか。


 そういうわけで、老人達の話にじっくり耳を傾けることのできる著者の立場をうらやましく思ったのであるが、やはりそうは甘くはないようである。

 民俗学者としての矜持と知的好奇心を拠り所に、老人達の昔話に「驚き続けること」をエネルギーに介護民俗学を進めてきた著者であるが、あるときから急に驚けなくなってしまう。 
 職場の配置換えで職員の不足している現場に配属となり、あまりの忙しさのため聞き書きができなくなったのである。
 

 驚けないというより、最初は「驚かない」ようにしていた。業務を滞りなくこなすには、驚いている時間がなかったからである。


 さらに、私は驚けなくなってから、一方で、介護の技術的な達成感の喜びは強く感じるようになっていった。たとえば午後の排泄介助の時間、寝たきりの利用者のオムツ交換をするのだが、オムツを開けた時に大量の排便があったりすると、いかにこの便を素早く、しかも丁寧に拭き取り、利用者の臀部をきれいにしてオムツを交換するか、と俄然張り切ったりするのである。
 そんな感覚は今まで味わったことがなかった。介護技術が高まったということなのかもしれないが、そこで感じる介護の喜びは、これまでの利用者との関係のなかで感じられるものとは明らかに異なる。極端に言えば、利用者と接しているのに、そこには利用者の存在が希薄となっている。ただ自分の技術に酔っているだけなのだ。驚きのままに聞き書きを進めていたときに、目の前の利用者の背負ってきた歴史が立体的に浮かび上がってきて、利用者の人としての存在がとてつもなく大きく感じられたのが嘘のようだった。なんだか私は自分が恐くなった。


 そう。自分も正直恐い。
 介護技術が高まり、他の職員に迷惑かけないよう業務をスムーズにこなせるようになるのと反比例するかのように、利用者との心の距離は離れていくような気がする。
 就寝介助中、寝巻きへの着替えを手伝っている間に話しかけてくる利用者を、次に寝かせないといけない別の利用者のことに気が行って、適当にあしらうことを覚えてしまった自分に情けない思いがする。

 しかるに、高齢者はどんどん増えていき、施設への入所を待つリストはどんどん長くなる一方で、介護職員は慢性的に不足している。「利用者とのコミュニケーション(傾聴)」が介護保険で利用できるサービスの一つとして算定される可能性などゼロに近い。


 知恵と豊かな経験に満ちた老人たちが口をつぐんだままあの世に赴くことは、民俗学的見地から、次世代への生きた歴史と知恵の継承という点からもったいないというばかりでなく、ターミナルケアのあり方としてどうなんだろうか?
 業務優先の今の仕事は仕方ないとは思うけれど、「どこか違う」という気がしてならない。利用者の話を聴くのが介護の一番大切な仕事なのではないだろうか。自分の話をきちんと聴いてもらえることは、自分が受け入れられたという実感をもたらす。それが利用者を落ち着かせ、最期の時を安らかに迎えるための何より効き目ある薬なのではないだろうか。


 介護に携わる者にとって、一読に値する本である。