不動の身体と息する機械 2004年発行。

 ALS(筋萎縮性側索硬化症)は難病中の難病と言われている。運動神経が冒され筋肉が萎縮して動かなくなっていく進行性の病であり、原因不明で治療法も見つかっていない。有名人では宇宙科学者のホーキング博士がいる。
 病気が進行すると、身体の自由はおろか話すことも食べることもできなくなり、やがて呼吸することもできなくなる。
 一方、感覚、自律神経と頭脳は健常なままでいられる。そこがいわゆる「植物人間」とは異なるところである。
 ある患者はそれをこんなふうに表現している。
 「永遠に続くカナシバリ」
 
 この本はわが国のALS患者達が置かれてきた状況、置かれている状況について、膨大な資料を渉猟し、その時々の患者や家族の声を丹念に拾い上げることによって、これ以上は望み得ないほどの十全さで描き出している。A5版450ページ弱の分厚さは、この病気の深刻さを、この病気について述べることの重さをそのまま表している。
 そして、過去数十年間の当事者の声をこれだけ沢山集め紹介していることは、ALSという病気を医療者側からでも介護の負担を背負う家族側からでも、もちろん宗教や哲学や生命倫理の観点からでもなく、患者の側から捉えようとする著者の姿勢を示している。
 むろん、著者が記しているように、患者の声と言ってもそれは「生き続けていて、自らのメッセージを何らかの形で発することのできる環境と能力と気力とを有している(いた)、相対的に恵まれた患者」に限られるのだけれど。その意味で、どちらかと言えば前向きな言説が多くなるというバイアスは仕方ない。

 その辺の事情を勘案しても、この本は滅多にない労作であり、メルクマールである。
 何のメルクマール(指標)か。
 ALSについて今後何かを述べようと画する人にとってのメルクマールというだけではない。安楽死や尊厳死について、病名告知について、近代医療と延命治療について、自己決定について、自己肯定について、死ぬ権利について、生きる意味について、何かを考え何かを述べようとする人にとってのメルクマールである。何かを言う前に「少なくともこれだけは踏まえておきたい」基本綱領とでも言うべき本である。

 
 ALSを発病した人を待ち受けているハードルにはどんなものがあるか。

 まず、病名告知がある。
 他のどんな難病でも告知されるのはつらいものだが、ALSはことに残酷である。
 「自分でできることが次第になくなっていく。思うこと感じていることを周囲に伝えるすべさえ奪われていく。感情や知能は残っているのに身体をコントロールすることがいっさいできなくなり、24時間他人の世話にならなければ生きていけなくなる。余命は長くて10年くらいである」
 それが他ならぬ自分の身に起こることが告げられる。
 
 次に、症状がある程度進んだところで、人工呼吸器をつけるかつけないかという、これまた究極の選択が待っている。
 機械につながれて話すことも口から食べることもあきらめて生き続けることを選ぶか、それとも呼吸を止めて死ぬことを選ぶか、である。呼吸器をつければ10%の人がその後10年以上は生きられる。だが、わが国では約7割の患者は呼吸器をつけないことを選んでいると言う。呼吸器をつけない患者の多くが言うのは「これ以上生きていても他人に迷惑をかけるばかり」。


 呼吸器をつけた人はひとまず生き延びる。呼吸困難の苦しさからも解放される。
 だが、これからどうやって暮らしていくかという難題が待っている。呼吸器が何らかの不備で止まったら窒息死である。24時間体制の見守りが必要となる。介護人をどう確保するのか。そのための費用、あるいは生活費をどうつくるのか。残念ながら、今の社会福祉制度では家族をあてにせずに患者が在宅生活を続けることは難しい。


 介護の問題、生活費の問題がクリアできたとする。
 今度は、周囲とのコミュニケーションもままならない状態で、寝たきりで生きることの困難がある。圧倒的な無為は退屈なのか、苦痛なのか、とてつもないストレスなのか、生き地獄なのか。
 それでも、身体のどこかが動くうちはコミュニケーションは可能である。目も見えれば耳も聞こえる。まばたきの回数と五十音表で周囲に意思を伝えることもできる。
 だが、やがて最終的な状態がやってくる。


 トータリー・ロックトイン・ステイト(TLS)

 完全閉じこめ状態。
 もはや動く箇所が一つもなくなって、周囲への発信がいっさいできない状態である。どこかがかゆくてたまらなくとも、「掻いてくれ」と伝えることもできない。それがどんなものなのかは本人にしか分からない。そして、そのまま亡くなることが通常なので、そこから帰還した人に体験を聞くこともできない。
 患者を見守る家族の体験だけが今のところすべてである。

 母の目玉が止まって、もう二年以上が経つ。残酷な(これ以上ひどい仕打ちは想像できない)病といわれる所以である。家族は最愛の母親を「母の肉体」の中に失い、母は出口を失った。・・・・そうして暗い数ヶ月を過ごした。母の心情は「顔色」「血圧」「体温」が明確に表し、娘や身近な介護者は、動かぬ顔に「表情」を見出そうとした。
 ・・・・母のこのかわいそうな状態を見続けて、こっちまで頭がおかしくなりそうだった。・・・・哲学に一時救いを求めた。人間はなんのために生きているのか。生きている価値とは、どこに見出せるのか。どういうことが生きがいと呼べるのか。母は今どこにいて、何を思っているのだろうか。そんなことばかり朝から晩までえんえんと考えた。 


 ALS患者を待ち受けるこれらのハードルはひとつひとつがとても厳しい高さである。どこかの段階で「死」へと気持ちが傾いても無理はないと思ってしまう。患者の中にも呼吸器をつけないことを選択する人が多いのはすでに述べた。(興味深いことに、日本より欧米諸国の患者の方が呼吸器をつけないという選択をする傾向にあるのだと言う。)
 だが、そのように単純に「質の悪い生」より「尊厳ある立派な死」を願ってしまう人々(自分もその一人である)の「気分」の総和が、世間の価値観を醸成し、社会的な制度や法や習慣や言説を作り出してしまうとき、ALS患者は最初から生き続けることを否定される環境に置かれてしまう。
 これは現実に起こってきたことだと、この本は立証している。
 たとえば、人工呼吸器の登場とALS患者への呼吸器普及には時間差があった。呼吸器はすでにあったのに、「使う必要がない」という言説が一昔前の医療の常識だったのである。呼吸器の使用を望みながら、呼吸器がそこにありながら、医療機関に断られて死んでいった患者が多くいたのである。
 冷静に考えれば、これは殺人行為である。
 だが、そのときにはALS患者は「生きていても仕方ない」というのが、医療界の(世間の)多勢を占める「気分」だったのである。

 そんなふうにして、上のハードルすべてについて、医療・社会の側からの「否定」が突きつけられてきた。それは今も多かれ少なかれ続いている。


・ ALS患者に告知するな。告知するなら本人でなく家族に。
・ いったん人工呼吸器をつけたら、もうはずすことはできないから(本人は当然できない。周囲の者がはずしたら犯罪になる)、本人によくよく呼吸器をつけることのメリット・デメリットを説明し熟慮させよ。
・ ALS患者を受け入れる病院を見つけるのは難しい。在宅で暮らし続けるには、まだまだ十分な環境が用意されていない。
・ 「他人に迷惑かけるな」「ムダな延命措置は自然に反する」「医療費や社会保障費を圧迫する」「自分で何もできなくなる前に、人様のお荷物になる前に、死にたい」「最期まで人間としての尊厳を保って死にたい」といった、それ自体一つ一つは決して間違っているとは言えないし、思うも語るも実践するも個人の自由であるが、どんな状態になろうとも生き続けることを願う当事者にとってみれば「存在そのもの」を否定された気持ちになるであろうことが予想される言説の数々が世の中に蔓延している。


 このような四方八方からの否定に継ぐ否定の圧力の下で、ALS患者たちが生き残ってきたのは、「生」へとベクトルを傾けてきたのは、医療従事者たちの否定的な考えを変えさせたのは、患者本人の生きる意志であり、患者同士の出会いと交流であり、実際に生き続けている患者がいるという事実の力(=エンパワメント)であった。

 

 以下、本文より引用。



★告知について

 ALSであること、それがどんな状態をもたらすものであるのかを、一度にすべてを伝えることはないにしても、かなり短期間の間に、本人に、伝えるべきである。それは、ALSがすぐに亡くなる病気ではなく、しかし状態の進行は早く、それがわかった上でそれに対する対応をとる必要があるからである。そして、家族に負担を偏らせなくとも、なんとか生きていくことは不可能ではないからである。
 もちろん、まちがって悲観的な情報が伝えられるべきではない。三年で死ぬと言われるのと、十年生きている人「も」いると言われるのと、私なら知らされた時の受け取り方が天と地ほど違う。
 そして知らせることは、その人が生きていくことをまずは前提したものであってよいはずであり、あるべきである。生きるためにはこれこれの手段がありますが、と言い、その各々がどんなものかを説明することである。いやそんなものはいらないと言われたら、どうするか。この問題はあるし、残る。しかし、そのことは、伝える時に「中立」であるべきことを意味するものではない。


★「中立」であることの弊害

 生きることを積極的に勧めず、その意味で中立の立場を取るのであれば、それは、否定性があってなお生きていくだけのものが与えられることにならないのだから、その人は死ぬだろう。否定をそのままにして、その人の価値や決定に委ねるなら、その人は自発的にこの世から去っていくことになる。ALSにかかる人の多くは分別盛りの年代の人たちであり、その分別ある人が去っていく。


★暮らしていくこと

 まず、暮らしたい場所で暮らせた方がよい。そしてその場が自宅であることは多い。そして病院に常時いなければならないことはALSの場合にそう多くはない。・・・・・
 自宅で暮らしたい人は、自宅で暮らせるのがよい。そのためには人手がいる。人手さえあれば暮らしたい場所で暮らせる。・・・・・
 基本的な方向としては、家族の負担に依存しないかたちでの在宅での生活を可能にすればいい。


★近代医療・社会と死の関係

 近代医療は「たんなる延命」を志向する、それに対して「人間的な死」「自分の死」を対置するという図式がある。この把握はまったくの間違いというわけではない。しかし基本的にははずれている。実際に起こってきたことを見ればそれがわかる。医療の側が延命に専心してしまうというのは一面的であり、見てきたように、生きるのをやめさせる側にもついてきた。だから、むしろこの紋切り型自体が説明されるべきものとしてある。医療はいつも生きる方向に人をもっていったりはしない。そしてそれは医療に限ったことではない。とても単純に言えば、この社会はその人たちが生きることを阻んできた。
 ここに何かの中心があるわけではなく、とくに誰かがそれを命令したわけでもない。しかしたんに無秩序があるのでなく、見通せない場所に迷い込むような仕掛けになっている。緩衝剤を経て、曖昧に事態は処理される。そしてただ現実がそのようになっているだけでなく、それでよいのだという理由も用意されてはいる。生きてきた人たちはその中で偶然のように生き延びることができたのでもあり、またこの仕掛けに抗して生きてきたのでもある。


★安楽死について

 ・・・身体の苦痛の多くは除去できる。少なくとも軽減できる。だから人はそれ以外の理由によって死ぬ。そしてALSの場合に固有に起こることは、自分のできることが少なくなっていくことである。
 ・・・ここでは仮に、生きるための現実的な条件自体は用意されているものとしよう。それでも生きないことにすることがあるかもしれない。ある文化に属する人は「自分ができることがなくなったから」と言い、また別の人は「人に迷惑をかけるから」と言うかもしれない。・・・・・
 そして、こうした価値をその人が住む社会から受け取ったにせよ、あるいはーあまりありそうにないことだがーその人一人で考えついたにせよ、その価値の妥当性について私たちは考えることができるし、考えたことを伝えることはできる。そこで考えると、やはりおかしいと言うしかない。ここでは生存のための行いを自らできなくなることが自らの生存を否定してしまっている。つまり、生存のための手段の価値が生存の価値を凌駕してしまっている。



★自立について

 まず、正しさの軸をすこし変えること。ALSは普通に暮らしていた人が突然かかる病気である。その人たちの多くはいわゆる分別盛りの年代の人たちで、さらにその多くは普通にきちんと生きてきた人たちである。行儀のよいことはもちろんよいことだ。ただ、それではこの病気の場合には生きにくい。「自分のことは自分でする」とか、「他人に迷惑をかけない」といった徳をそのまま遵守しようとしても、そのままでは生きがたい。だからこの部分は考え直すことになる。
 


★生きることの価値について

 行うこと、行えることの価値が存在の価値を決めることがある。たしかに自らが何かをなせることには価値があるだろう。自分の役にも立つし、他の人の役に立つこともあるし、それだけでない達成感が得られることもある。しかし、役に立つとは生きるための役に立つということであり、それに生きることよりも大きな価値が与えられるというのは明らかに逆転している。自分で行えることはそれほどには大切なものではない。



 最初に書いたように、この本はALS患者の声を中心に編まれたものであり、上に挙げたバリア一つ一つについて様々な考え方・向き合い方・選択をした当事者の声が取り上げられている。だが、ただそれらを羅列し紹介するにとどまってはいない。こんな考えもある、こんな立場もある、こんな意見もある、と著者自身が「中立」を保って判断を保留にしているのではない。人工呼吸器をつける人とつけない人、どちらも必要な情報を十分に得たうえでの自己決定により選択したのだから、本人の自由だと突き放しているのではない。
 同時に、様々な意見や見方をそのまま提示して、判断や評価を読者に任せようとするものでもない。
 著者はそのような「中立」について異議を唱えている。
 自らの基本的な立場を鮮明にしている。

 人の存在・生存に無関心な社会でなく、それを支持する社会であることが基本的に肯定されるとしよう。とすれば、そのためにすべきことが肯定されるし、生存の方を示し、そのための支援を本人に伝えることが支持される。そして、今までのところでは、生存に向かうーたしかに偏りがないとは言えないー行いを不当と考えるためのものは見つかっていない。


 生きることの無条件の肯定がそれである。