仏の発見 「ここまで語った対話があっただろうか。仏教の常識が根底から覆る!」と帯にある。
 過大広告もいいところ。そんな大層な本ではない。

 どちらの話者も博覧強記にして仏教に関する造詣の深さでは日本有数の人である。学者や僧侶とは違った自由自在な発想も楽しい。
 中国からやってきた仏教が日本古来の神道=アニミズムと出会った時、自ずから変貌して「山川草木悉皆成仏」思想が生まれたという見解などは「なるほど」と頷けるところである。宗教は伝播する時にその土地の土着の信仰と大なり小なり融合して住民に受け入れられていく。一神教が砂漠に生まれたように、その土地の神の形態や性質は風土や気候と切り離せないものだからである。もし大乗仏教ではなく、小乗仏教が日本に直接入ってきたとしても、それはやはり日本風に変質していたことであろう。いや、禅こそがその姿なのかもしれない。

 この対談は話題が広く豊富で、「聖徳太子は両性具有ではないか」などに見られる発想の自在さもあって面白くはあるけれど、とりたててエキサイティングなものではなかった。 
 それは二人の話者とも、孫悟空が釈迦如来の手のひらの中から抜け出せなかったように、大乗仏教の中から一歩も出ていないからである。
 二人がそれぞれの出自や生い立ち、子供の頃の悲惨な経験を語っている部分がある。二人とも「苦」「心の闇」を味わい、それが後年仏教に引き寄せられるきっかけとなったことが分かる。
 だが、二人が必要としている仏教は、あくまでも大乗仏教それも親鸞や蓮如や空海なのだ。

梅原 釈迦の仏教には、共感できないところがあるんです。輪廻を脱するというが、親鸞の仏教なんかとはちがっているんですよ。釈迦の仏教は「人生は苦である」という、それが基本ですね。
五木 そうなんですね。
梅原 その苦の原因も、愛欲で、愛欲から争いが起こっていく。争いのもっとも酷いのは人殺しだと。結局、そういう人間の運命を克服しないといけない。
五木 はい。
梅原 それには愛欲を滅することが必要だ。戒律を守り瞑想をし、知恵を磨くことによって、愛欲を滅ぼす。完全に愛欲を滅した状態に達するのがニルヴァーナ、涅槃だ。ニルヴァーナに入るのは、生きているときは難しい。だから、生きているときに、そういう状態に達したのを「有余涅槃」といい、死んでからを「無余涅槃」という。そういう思想が釈迦仏教ですね。
五木 ええ。
梅原 「人生は苦であるか」という釈迦仏教に、疑問を提出したのが、大乗仏教ではないでしょうか。
五木 なるほど。

 
 親鸞の仏教という言い方は矛盾している。「親鸞教」と言うのが本当だろう。

 思うに、幼い頃に飢餓や戦争や親の死などの現実の「苦」を経験してしまった者は、かえって「人生=苦」というブッダの教えを理解しがたいのではないだろうか。というのも、ブッダのいう「苦」とは現実の苦しみよりもむしろ「虚しさ」「実存的不安」に近いように思うからだ。
 ブッダは釈迦国の王子として、生まれながらにすべてをー金も地位も権力も女も容姿も立派な両親もー手にしていた。普通の人が味わうような人生の「苦しみ」からもっとも遠いところにいたのである。そんなブッダの「苦しみ」とは現実的なものではなかったろう。
 出家後の荒行で、ブッダは肉体的・世間的・社会的な現実の「苦しみ」も十二分に味わうことになったけれど、それでも彼は悟りを追い続けた。現実の「苦しみ」では覆い隠せない、質の異なる「苦しみ」を感じていたと見るべきだろう。

 日本で生き続けてきた大乗仏教は、現実の「苦しみ」に対処するための心の薬だった。貧しさ、差別、病や死の恐怖、愛する者との別れ、嫌な者との出会い、戦争、自然災害・・・。避けることのできない事態を受け入れるべく、「仏という物語」が心を整えてくれたのである。
 現代日本人、五木や梅原などの世代ではなく戦後生まれの豊かさを享受しながら育った世代の抱える「苦しみ」は、出家前のブッダの感じていた苦しみにより近いのではないだろうか。それは伝統的な大乗仏教では癒されないのではなかろうか。
 テーラワーダ(原始仏教)が若い人を中心に急速に広がりつつある背景には、そのあたりの事情があるような気がする。