老人ホームで働き始めて半年が過ぎた。

 慣れてきた、と言っていいだろう。
 日々の業務は頭に入った、というより体に染みこんだ。職場の雰囲気にも馴染んだ。一つ一つの基本的な介助もまずまずこなせるようになった。利用者ひとりひとりのADL(日常生活動作)や性格や好みやこだわりも見えてきて、その人に合わせた対応の仕方、話題の選び方、声がけのタイミング、介助のコツに注意が払えるようになってきた。
 たとえば、Aさんの入浴介助は頭でなく身体から先に洗うこと、Bさんを喜ばせるテッパンの話題は警察官だった父親の話、Cさんの機嫌が悪いときは下手に声かけせずにしばらく放っておくこと・・・というふうに。
 仕事に行くのが気が重い日ばかりだったけれど、暑さも盛りを過ぎ、朝晩涼しさを感じるようになると、体もラクになり、さほどの憂鬱や不安も感じずに職員用入口の扉を開けている自分がいる。もっとも、「さあ、今日も頑張るぞ~」とか「今日はどんな楽しいことがあるだろう」という前向きな気分にはまだなれないでいるが・・・。
 新人職員としての緊張は消えかかっているけれど、別の意味の緊張感だけは持続している。どんなに馴染んでも緊張だけは取れない。また、取ってはならないのが人の命を預かっているこの仕事の宿命かもしれない。
 半年あまりで数名の利用者が亡くなっている。


1. 介護の仕事は回転が速い 
 利用者も亡くなるが、職員もいなくなる。
 辞める人が多いとは聞いていたが、これほどバタバタ辞めるとは思わなかった。一ヶ月に一人は辞めている。それも知らないうちに。新しい職員もやってきて各フロアに挨拶回りしていくのだが、数日したら姿を見かけない。定着率も驚くほど低い。
 これが当たり前になっているのだろう。辞める理由について誰もそれほど詮索しないし、新しく入ってきた人に過大な期待はしない。いつかは別れると分かっているからか、深く知り合うこともない。
 自分のような介護新人の場合、定着率の悪さは、施設の環境や人間関係がどうのこうのというよりは、介護の仕事そのものに対する「向き不向き」が大きいだろう。向いているかどうかは一ヶ月あれば自覚できる。いや、「向いていない」ことは一ヶ月で自覚できる。半年たって続いている自分は、「向いていない」ことはないのだろう。
 ベテランの場合の退職理由は、他の職業同様さまざまであろう。給料が悪い、人間関係が悪い、体調(特に腰)を崩した、施設の方針に納得がいかない、家の事情、他の介護施設で働きたくなった・・・等々。
 だが、退職者の多い一番の理由はおそらく、介護職はいったん技術と経験を身に着けてしまえば(特に「介護福祉士」という資格を手に入れてしまえば)、今のところ売り手市場の業種であるところにあると思う。看護師同様、自分にとって最も快適な職場環境を求めて渡り歩くことが可能なのである。「包丁一本、さらしに巻いて~」の世界である。自分も早くそうなりたいものだ。(って、辞める気でいるじゃん)
 補充される人数より流出する人数の方が多いのだから、現場は常に人手不足となる。シフトの埋まらないところをフリーの立場にいる上司が入ってなんとか回して行くのだが、それでも当日になって誰かが病欠するとシフトに穴が開く。その穴を埋めるために、他のフロアに入っている職員たちが協力して時間を作り出して、病欠者の出たフロアの手伝いに回る。毎回なんとかしのいでしまうのだから驚く。長く残っている職員はやはりベテラン揃いで、よく気が回る人が多いというのも事実である。

2.介護の仕事はその人が「ムキ出し」にされる
 「回転が速い」からか、職場の人間関係は思った以上に淡白である。良く言えば、それぞれのプライバシーに必要以上踏み込まない。仕事さえきちっとやっていれば文句は言われない。 
 何十人の同僚はいても、日々一緒に仕事をするのは、同じ日に同じフロアに重なる時間枠でシフト入りするたかだか3~4名に過ぎない。その相手とも次に一緒に入るのは一週間後だったりする。下手すると半月近く顔を合わさないこともある。
 一緒にシフト入りしても、仕事中は利用者に注意を集中していないとならないから気軽に雑談している暇はない。利用者の情報を交わすのがメインとなる。
 他の施設は知らないが、飲み会も半年にいっぺんくらい。
 そういうわけで、半年たつのに不思議なくらい同僚のことを知らない。結婚しているのか、子供はいるのか、何年介護の仕事をしているのか、どこに住んでいるのか、この仕事に何を期待しているのか・・・。自分もまたあえて聞かれない限り自己開示しない。
 こういう人間関係をつまらなく淋しく思う人もいるだろう。気楽で心地よいと思う人もいるだろう。自分はどちらかと言えば後者である。
 だが、面白いのは一緒にシフト入りして仕事をすれば、特段話さなくとも相手がどんな人間かいっぺんに分かってしまうのである。それは、この仕事が高齢者いわゆる「弱者」相手の仕事であり、利用者に対する対応の仕方(特に声かけ)で、介護者の性格が「ムキ出し」になってしまうからである。
 利用者を幼児のように扱い子供言葉で声がけする人、自分の言うことを聞かない利用者を叱りつける人、常に敬語を用い利用者に作業(例えば、おしぼりたたみ)を手伝ってもらったあと感謝を忘れない人、学生時代の延長のようにタメ口で話す人、利用者の昔話をほとんど聞き流しテキパキと介助する人、ちょっとした用事で別のフロアに行った時もそこのフロアの利用者に必ず顔を見せて挨拶する人・・・・・。いろいろである。
 自分の対応の仕方も他の職員に観察され、評価され、正体が見定められていることだろう。
 こわい職業だ。

3.介護の仕事は「急がば回れ」
 高齢者はすべてにおいてペースがゆったりしている。そして、自分のペースを守りたがる。そのペースを無視して介護者都合で業務を行おうとすると、かえって余計な仕事が増えることが多い。三好春樹の言葉にもあったが「効率的にやろうとすればするほど非効率になる」のだ。最近になってようやくそれが分かってきた。
 食べるのが遅いKさんがいる。他の利用者すべてが食べ終えて、口腔ケアや排泄も済んで、寝巻きに着替えて、それぞれの部屋のベッドに横たわっても、まだ一人食堂で悠然と夕食を食べている。下手すると2時間近くかかるのだ。
 介護者としては、早いところ食事終了にして、歯磨きさせて、寝かせつけてしまいたい。これから日誌もつけなければならない。トイレのゴミ(パット類)も収集しなければならない。排泄や水分の集計もしなければならない。各利用者のケースも入力しなければならない。その間にも、いったん就寝した利用者が起き出してトイレに行きたがるのだ。夜勤の職員にバトンタッチし定刻に上がるためには、Kさんに「とっとと寝てもらいたい」のが本音である。
 ある日、Kさんをせかして食事を途中で切り上げ(一応90分で切っていいことにはなっている)、車椅子を洗面台までダッシュさせ、ほうっておいたら20分はかかる歯磨きを付きっきりで10分でやってもらい、トイレに連れて行き、便座に座らせた。
(やった~。これで40分は稼いだぞ)
 と思ったら、そのとたんあちこちの居室からナースコールが鳴り響き、目を覚ました利用者の排泄介助に追われるハメになった。その間、Kさんはトイレに座りっぱなし。やっと、手が空いてKさんの元に戻り、トイレから出ると、「まだ、歯磨きしていない」と言い張る。「さっき、一緒にしましたよ」「いや、まだしていない」「お口の中きれいですよ」「もう一度したいから連れて行って」
 結局、二度手間になってしまった。その上、すべてを終えて就寝してもらったあと、しばらくするとコールが鳴り「お腹が空いた」とおっしゃる。その対応に苦慮しているうちに、他の部屋からまたしてもコールが・・・。
 結局、定刻通りには終わらなかったのである。
 それぞれの利用者が持っているペースを無視すると、そのぶり返しがあとで必ずやってくる。本人の中に「ちゃんと食べていない」「ちゃんと歯磨きしていない」「ちゃんと薬を呑んでいない」という不全感が生じてしまうのである。
 また、一緒に暮らしている利用者同士には見えない不思議な連携が存在するように思うことがしばしばある。誰か一人のペースが乱されると、それ以外の利用者もいっせいにいつもと違う反応を示すのである。まるで「和」が乱されたことに不安を覚え、いっせいに異を唱えるかのように。
 あたかも互いが今どんな状態にあるのかを熟知し助け合うかのように、一人が救急状態に陥った時など、他の人々は~普段どんなに頻繁にコールを鳴らす人でさえ~その時に限って落ち着いて寝ていたりする。
 この利用者間のテレパシーのような「互助反応」は、まことに不思議なものである。
 それが分かってからというもの、できるだけ利用者のペースで介助を行い、待っている時間に他のできる雑用(ゴミ収集、洗い物、記録付け)を片づけるようにしている。


4.介護の仕事は「日々是好日」
 一日が無事に終わるとホッとする。同時に充実感に満たされる。
 この感覚はどこかで味わった覚えがある。そう、ヤマパンの工場で日雇いのバイトをしていた時の感覚である。その日の仕事はその日で終わり、という日雇い労働だけが持つ「完了感」である。
 むろん、介護の仕事は日雇いではない。利用者は今日も明日も明後日も(確率100%とは言えないけれど)そこにいて介護の継続を願っているし、職員も利用者の変化をある程度のスパンで見守りながら介護する。いきなりクビになることもそうそうない。持続性は保たれている。
 だが、その日その日が勝負だという感覚がある。
 加えて、だんだんと自分の先行きが気にならなくなってくる。この仕事がいつまで続くか、腰を痛めて続けられなくなったらそのあとはどうするか、自分の老後はどうするか、いくら貯金があればいいか。そういうことが気にならなくなってくる。
 これはどういうことだろう?
 自分だけに限ったことか?
 思うに、仕事に入る前にいつも願う「今日一日がとりあえず無事でありますように」という思いが、そのように(無事に)終わったとき、祈りが聞き届けられたような至福感につながるのだろう。それが「今日も無事終わった」という完了感となり、その繰り返しが「明日のことは明日心配すればいい。明日祈ればいい」という思い癖になっていくのだろう。
 この「無事」というのは「今日は利用者の転倒も誤嚥も救急搬送も死亡もなかった」という意味ではない。そういうことは避けられないし、実際自分のシフト中に救急搬送になったこともある。そうではなくて、自分の何らかの落ち度で利用者の命に関わるような事態にならなくて良かった、という意味である。
 介護職の退職理由の中には、そういう失敗をして以後高齢者に関わるのが怖くなったというのもある。この仕事で一番つらいのは、肉体労働のきつさでも、感情労働のしんどさでも、休みが取れないことでも、賃金が低いことでも、糞尿を扱うことでもなくて、自分のミスで利用者に致命的な害をもたらしてしまうことである。
 祈らずにシフト入りする日は一日たりともない。


前段→介護の仕事3
続き→介護の仕事5