銀座松竹。

 昨年12月にニューヨークメトロポリタン歌劇場で上演されたオペラの映像化。
 幕間のあわただしい舞台転換の様子や歌い終えたばかりの出演者へのインタビューを盛り込んでいることもあって、ライブ感が伝わってくる。編集でカットされていないので、当夜のメトの観客達が体験したのと同じ時間割(休憩時間も含め)で最初から最後まで一曲見聞きすることができる。これは生の舞台をあとから遠隔地で映像で見る時に生じざるを得ない落差を最小限にとどめ臨場感を出すうまいやり方だ。


 『アイーダ』と言えば、バブルの頃に東京ドーム(!)で見たフィオレンツァ・コソットのアムネリスを思い出す。
 いくら古代エジプトの宮殿を舞台にしたエキストラ数百人のスペクタル大作だからと言って「東京ドームはないだろう」と今では思うが、ある意味面白い時代であった。オペラにとっての命とも言える「マイクロホンを使わない歌手の生の声」を犠牲にしてまで、ゴージャスと成金趣味(たしか本物の象が出てきたような覚えがある)を追求した結果は、案の定惨憺たるものであったが、びっしり埋まった外野席の一角(お隣では親子連れがポップコーンをほおばっていた)から、はるか遠い舞台にうごめく豆粒ほどのアイーダやラダメスにまじって、コソットのアムネリスはなおも強烈であった。マイクロホンを通した偽の声であっても、顔の表情などまったく分からない遠距離であっても、コソットの歌と演技は観客の耳目を聳たせる磁力に満ちていた。千両役者とは彼女のような人を言うのだろう。

 そもそも自分とオペラとの出会いもフィオレンツァ・コソットであった。
 NHKの教育テレビ(芸術劇場?)で放映した藤原歌劇団上演『イル・トロヴァトーレ』(ヴェルディ作)をたまたま見たのである。1987年のことだ。
 このとき復讐に燃えるジプシー女アズチェーナを演じたのがコソットであった。
 これにはまったく度肝を抜かれた。自分がそれまでオペラに持っていたイメージを完全に覆された。それまでオペラは、演技者としてはデクノボウの太った歌手達がくだらない筋書きに沿って退屈な歌を応酬するものと思っていた。芝居的要素は添え物に過ぎないと。
 コソットはとんでもない名女優であった。一挙手一投足にアズチェーナの魂が宿っていた。目の前で処刑された無実の母親の復讐に燃える娘であり、過って実の息子を殺めた母であり、誘拐した仇の息子を愛してしまう母であり、その息子の死と共に復讐を成就させた女であり。こんなに難しい役どころを驚くほどのリアリティと生命力をもって舞台上に描き出す。一度聴いたら忘れられない大砲のようにとどろくメゾソプラノは、ブラウン管を通してさえ脳天直撃であった。

 初めて聴いたのが『トロヴァトーレ』であったことも今思えば幸いした。
 トロヴァトーレほどオペラの歌の醍醐味が凝縮されて輝いている作品は滅多にない。ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バリトンというオペラの代表的な四声が同じくらいの出番を持ち、代わる代わる見事なアリア(見せ場)を披露してくれる。四声が、ソプラノ×テノール、メゾ×バリトン、メゾ×テノール、ソプラノ×バリトン・・・というふうに様々に組み合わせられて、声質の違いによる二重唱の面白さをバランス良く味わえる。しかも第二幕の幕開けのジプシー達のコーラスに象徴されるように合唱もまた素晴らしい。第三幕のテノールの有名なアリア「見よ、燃える炎を」では、クライマックスの高い「ド」(ハイC)が決まるかどうかという手に汗握る興奮が待っている。こんなに面白い、聴きどころ満載のオペラは他にない、と今でも思っている。
 最初に聴いたのが『トロヴァトーレ』でなかったなら、しかもコソットでなかったなら、そのあとオペラにはまることもなかったかもしれない。


 そういうわけで、アズチェーナやアムネリスを聴くたびにコソットの歌唱と引き比べてしまうのである。

 今回のアムネリスは、オルガ・ボロディナという名のロシア出身の歌手。METでは常連のベテランらしい。
 これが素晴らしかった。コッソトほどインパクトのある声ではなくアクも強くないが、歌も演技も一級品。尊大で嫉妬深いが根は純真なエジプト王女アムネリスの複雑な心の内を、歌っていることを忘れるほどの迫真の演技で描き出し、演じていることを忘れるほど見事な歌唱で聴き手に伝えることに成功していた。
 このアムネリスに比べれば、二枚目にして大スターのロベルト・アラーニャのラダメスも、これがメト初出演だという新星リュドミラ・モナスティルスカのアイーダも、ところどころ見事な歌唱を見せてはいたものの、全幕を通して判断した時に一貫性のある人物造型ができているとは言い難く、見劣りがした。(とは言え、一流の歌唱であることは疑いを得ない。)

 ファビオ・ルイージの指揮は歯切れが良く、ダレがない。METのオーケストラはコンピュータのように正確でクリアで流麗である。 

 もう一つ。
カラスCDジャケット 『アイーダ』と言えば、1951年メキシコ公演のマリア・カラスである。
 スカラ座にデビューして間もないまだ20代のカラスが、マリオ・デル・モナコのラダメスを相手にアイーダを歌っているライブ録音が幸運にも残っている。
 このときカラスは第二幕「凱旋の場」のクライマックスの大合唱の最後に離れ業をやってのけた。登場人物全員による大合唱と管弦楽のフォルティシモの分厚い壁を楽々と突き破り、3点変ホ音(ソプラノでも出ない人が多い超絶高音)を朗々と響かせたのである。会場の大興奮ぶりが録音(CD)からも伝わってくる。何度聴いてもゾクゾクする。
 この音はヴェルディの書いた楽譜にはない。カラスはメキシコの観客へのサービスとしてやったのである。むろん、「スカラにカラスあり」と記銘させたかったのであろう。 
 以来、『アイーダ』を聴いていてこのシーンが近づくに連れて、「このソプラノはやってくれまいか」と期待してしまうのである。

 若い日のカラスほどの圧倒的な声量、力強い高音、胆力、負けん気、プリマドンナ魂を持ったソプラノがいつの日か現れないかと期待する。それがオペラという麻薬に溺れてしまった人間の描く夢想なのである。