老人ホームで働いて10ヶ月になる。
 日々の仕事にずいぶん慣れた。身体の使い方や業務をこなす段取りが上手くなったと思う。更衣・入浴・オムツ交換など一つ一つの介助を行うスピードも上がってきた。
 業務を円滑に行う上で「慣れてきた」のはいいことであるが、一方で懸念すべきこともある。
 一つは緊張感を失い基本を怠った介助を行った結果、事故につながる可能性。山登りでも峠を越えて一安心した頃が一番危ない。先日も落薬ミスをしたばかり。利用者に薬を投与する際に床に一粒落としてしまい、他の利用者に指摘されるまでそれに気づかなかった。
 もう一つの懸念は、施設で働き始めた当初に感じた「違和感」が薄れてきていることだ。
 施設の外の世界(一般人の生活空間)と施設の中の世界(介護生活空間)とは勝手が違う。外の世界の「あたりまえ」が中の世界では通用しない。中の世界の「常識」が外の世界では「非常識」。当初、そのギャップに強烈な違和感を持った。「これでいいのだろうか?」「これしかないのだろうか?」という疑問を抱いた。が、最近はそれが薄れている。施設の「あたりまえ」がだんだんと自分の「あたりまえ」になってきているのを感じる。
 それは脅威である。
 やっぱり「あたりまえ」にしてはいけない部分があると思う。
 風化しないうちに、それをもう一度洗い出して、検討して、言葉にしておく必要を感じる。


1.「外に出られない」ということ

 いったん入所したら、利用者は自分ひとりではもう外に出ることができなくなる。家族が訪れて本人を連れ出すとき以外は、必ず誰かスタッフが一緒についていくことになる。そもそも一人で生活するのが困難な状態に、終始見守りが必要な状態になったから施設に入れられたわけであるから、当然と言えば当然なのだが・・・。
 ほとんどの利用者は、多かれ少なかれ認知症があるので一人で外出したら行方不明になりかねない。転倒や交通事故にあう危険もある。
 施設では、利用者が勝手に外に出ないようにフロアのすべての扉や窓を三重ロックにしている。スタッフだけが出入りできるようドアの開閉には暗証番号を用いている。
 一方、外出を希望する利用者に対して、その都度希望を叶えてあげる余裕はない。スタッフが圧倒的に足りない。
 利用者は、好きなときに好きなだけ外を散歩することもできない。
 我々の住む「外の世界」では考えられないことである。
 ある意味これは「幽閉」である。「監禁」である。
 介護の世界では「利用者の拘束は虐待にあたります。やってはいけません。」と言う。ベッド柵を閉める、居室に鍵をかけて閉じ込める、車椅子から立ち上がらないよう紐で縛る。そういったことには目くじらを立てるのに、大本のところで自由を奪っていることに呵責を感じていないみたいである。
 毎日夕刻になると、フロアを徘徊する利用者がいる。外に出ようと、あっちの扉、こっちの窓と渡り歩いて鍵を開けようとする。その姿を見ていると「いったい自分たちは何をしているんだろう?」と思うことがある。まるで牢屋の番人のようだとも。

 利用者の安全を守るために、これは仕方ないことだと分かっている。徘徊する利用者の姿にも慣れたし、その対応方法もつかんできた。外に出すわけにはいかない。利用者の家族に介護をまかされている以上、命を守る責任がある。
 かくして、自分の部屋と食堂、その二つをつなぐ廊下。それだけが利用者の生活空間になる。
 働き始めた頃、あまりに覚えることが多いのと緊張とで毎日がストレスフルであった。仕事を終えて帰るときにこう自分に言い聞かせて励みとした。
「それでも自分は帰るところがあるだけマシだ。自由に外に出られるだけ幸せだ。」


2.「好きなものが食べられない」ということ

 長年、自分は、好きな物を好きな時に好きな形態で好きな量だけ食べる(飲む)のをあたりまえとする生活をしてきた。健康やメタボを考えて食べる量を減らしたり、食べる物を制限したりということはあるけれど、それだって結局自分の意志でやっていることである。食べたくないのに無理やり食べさせられる、飲ませられることもない。(学生時代、クラブの先輩に酒を強要されたくらいか・・・)
 施設ではこの自由も奪われる。
 朝昼晩メニューは決まっている。みんなと同じものを食べるほかない。量も決まっている。おかわりもできない。持病によって様々な食事制限がある場合、あらかじめメニューからはずされてしまう。(例えばワファリン服用者は納豆が禁止) 誤嚥による窒息や肺炎を防ぐために食事の形態も決められてしまう。元の食材が何だったか分からないほど、細かく刻まれたり、SF映画に出てくる宇宙食みたいにカラフルなペースト状にされる。酒やタバコも施設内ではダメである。これは健康上の理由もあるが、集団生活であること、防災上の理由もある。
 人間にとって最大の楽しみの一つである食べること。その自由が奪われる。
 一方、現在ホームにいる老人たちは、日本が貧しかった時代を生きてきた。子供の頃のひもじい思い、戦中戦後の食料難を知っている。「食べられる物があれば恩の字」という考えの人も多い。飽食の時代を生きている戦後生まれのような食に対するこだわり(グルメ)やわがままは希薄である。そこは救いかもしれない。
 食べることへの執着を手放していかないと老後は辛い。


3.「始終監視される、あるいはプライバシーがない」ということ

 安全を守るという大義名分のもと利用者は一日中監視下に置かれる。これを介護用語では「見守り」と言う。

 勝手に部屋の扉を開けられる。
 勝手に部屋に入られる。
 知らないうちにセンサーマットを入れられる。(転倒リスクの高い人がベッドから降りるたびに鳴り響く仕組み。)
 勝手にトイレの扉を開けられる。
 勝手にトイレに入ってこられる。
 用を足している間も職員が傍らに立っている。
 一人でゆっくり風呂に浸かれない。

 外の世界では考えられない話である。裁判沙汰になってもおかしくないことばかり。
 たとえ集団生活であっても、自分の部屋やトイレの個室や浴室は、人が独りっきりになってリラックスできる唯一の場所である。その空間が奪われるなんて今の自分には考えられない。
 最初のうちは利用者が用を足している脇で排尿や排便の音を聞きながら突っ立っているのに抵抗があった。逆の立場なら恥ずかしいのと緊張とで出るものも出ないだろう。
 だが今はやっている。一人で姿勢を保って便器に座るのが困難な人の場合、仕方ないからである。それができる人ならば、便器に座ってもらったら基本いったん外に出る。が、再度トイレに入る際にノックはするが返事は待たない。利用者に拒否権はない。
 翌日の入浴準備をするため、利用者が食堂にいる間に利用者の部屋に無断で入って利用者の衣類を引っ掻き回す。最初は戸惑ったことも今ではやっている。女性の下着だからとて容赦しない。外の世界で同じことをやったら、「空き巣」「プライバシー侵害」「準わいせつ罪」である。(無論、自分で準備ができる方には声がけしてやっていただくようにしている。)
 こういった非常識がまかり通るのは、利用者に認知症があって自力ではできないからであり、権利の侵害に無反応になっているからであり、「介護されているんだから仕方ない」という弱み(あきらめ)があるからである。そしてまた、業務があまりに忙しくて、すべてのことについて、いちいち一人一人の利用者の許可を得て介助するのは到底不可能だからである。

 自分のプライバシーについての感覚がずいぶん麻痺していると思う。外の世界の生活に波及しないといいが・・・。)


4.「好きな時に起床できない、横になれない」ということ

 隠居してせっかく丸一日自由な時間が得られたというのに、悠々自適な老後だったはずなのに、施設に入れば一日のスケジュールが否応無く決まってしまう。「今日は昼まで布団の中でゴロゴロしていたい」「どうせ起きても何もすることがなくて退屈だから寝ていたい」と思っても、具合が悪くない限り職員が起こしに来る。日曜・祝日も関係ない。
 規則正しい生活は健康維持には欠かせないし、日中臥床してしまうと夜眠れなくなり、しまいには昼夜逆転してしまう。夜勤スタッフにとって、夜中にフロアをふらつく利用者、トイレ頻回の利用者はごめんこうむりたいところである。それに、寝てばかりいて筋力が落ちるのも、褥瘡ができるのも困る。
 最初はこうしたことが分からなくて、「なんで本人が寝たいと言っているのに寝させてあげないんだろう?」と思っていた。
 大体、自分の基本的な考え方は「もうここまで十分生きてきたのだから、あとは好きにさせてあげたら・・・」なのである。が、それを認めてしまうと、負担は我々職員に跳ね返ってくる。一人一人の利用者の好き勝手を援助していたら、到底手に負えなくなる。
 丸一日時間を好きに使える休日を持てることの贅沢さを、この仕事を始めてから一層強く感じるようになった。


5.リハビリする意味って・・・?

 介護にはリハビリも付きもの。
 体の状態が良くなり、運動機能が上がり、自分でできることが増えることは、基本的に良いことである。トイレだって体を洗うのだって他人の手を借りるより自分でできたほうが良いに決まっている。トランス(移乗)だって柵をつかみながら自力でできれば、職員の手の空くのをじっと待っている必要はない。結果として、職員の負担も減る。
 一方で、首をかしげてしまうケースもある。
 これまで車椅子でしか動けなかった人が、リハビリの成果で杖で歩けるようになった。認知があるのでフロアを行ったり来たり徘徊する。忙しい職員は四六時中見守っていることはできない。それはつまり「転倒リスクを高めた」と言うことでもある。で、転倒して骨折して車椅子に逆戻り。
「いったい何をやっているんだろう?」


 歩けるようになることは若いクララ(『アルプスの少女ハイジ』)にとっては喜ばしいことである。好きなところに自分の足で行くことができる。散歩も買い物も海外旅行もできる。汗水流して働くことだってできる。恋愛の機会だって増える。
 一方、施設の利用者は歩けたところで家に帰れるわけじゃなし、自由に外出できるわけじゃなし、仕事が待っているわけでもない。歩けた先の目的がない。
 リハビリする意味って何だろう???と思うことがたまにある。
 もちろん、本人が自分から望むならばそれをサポートするのが職員の務めである。が、リハビリを拒否する利用者に対し、なんとかその気にさせようとする意味が見えない。言葉が見つからない。
「あなたが自分で立てるようになると、介護する私たちがラクになるんですよ」とでも言うのか。


6.「暇をもてあます」ということ

 一番の違和感というか粛然とさせられたのがこれだ。
 日がな一日、何するでもなくボーッと食堂の椅子に座っている利用者達。「することがない」とはこんなに辛いものかと思う。
 テレビを観るでなし(耳が遠い、目がよく見えない、世間的なことにもう関心がない)、他の利用者と会話するでなし(認知がある、耳が遠い、自分の話を聞いてほしい人ばかりで会話が成り立たない)、何か趣味に没頭するでなし(体の損傷でできなくなった、認知でできなくなった、インドアで一人でできる趣味を持っていない)、インターネットやゲームに興じるでなし・・・。職員が行うレクリエーションに参加するか、おしぼりをたたむのを手伝うか、トイレと食席を往復するか・・・。自発的に何かを楽しむということがない人が多い。
 もちろん、そうでない人もいる。自分の部屋にこもって好きな読書をしている人もいれば、パソコンをいじっている人もいれば、編み物している人もいる。積極的にフロアの手すりを使ってリハビリする人もいる。
 だが、多くの利用者は暇をもてあましている。
 これは世代的な理由もあるのだろうか。仕事や家事だけに生涯を捧げてきて趣味や娯楽に興じる機会の無かった世代の特徴だろうか。それとも年を取ると、様々なことに興味が失われてしまうのか。あるいは認知症のため集中力がキープできないためだろうか。
 日本人の平均寿命がそんなに長くないうちは、老後も短かった。仕事ができなくなってお陀仏、子供を生んで育てて孫の子守してご臨終、という切りの良さがあった。
 いまや職業生活を終えてから、家族の世話係を終えてから先の人生が長い。
 人生の最後の空いた時間に自分は何をするか、何ができるか。それを考えておくことの大切さを思わざるを得ない。


7.「嘘をつくこと」について

 これは個人的にしんどい部分である。
 認知症の利用者に対して「嘘をつく」のは日常茶飯事である。
 夕刻になると帰宅願望が起こる人は多い。「そろそろお暇します」とか「勘定お願いします」とか「家に電話して迎えに来るよう家族に伝えて下さい」とか言って、フロアをウロウロし始める。この状態を「不穏」と言う。
 職員はうまくなだめて落ち着かせなければならない。下手に対応すると感情的になって、職員や他の利用者への暴力行為につながったり、他の利用者にも「不穏」が伝染してフロア全体が収拾つかなくなったりするからである。出口を探して徘徊しているうちに転倒する危険もある。
 そんなときにやってはいけない対応は、「なに言っているんですか。あなたはここに入所しているんですよ。ここがあなたの家ですよ。帰れませんよ。」と、相手の言うことを否定して本当のことを伝えることである。本人が納得しないばかりか、職員との信頼関係が壊れいっそう不穏状態がひどくなる。
 対応の基本は、相手を否定しない。無理に説得しようとしない。
 たとえば、こんなふうに言う。
「今日はもう遅いからここに泊まって、明日お帰りになりませんか」
「わかりました。ご家族に連絡いたしますね。その間、夕食をご用意しましたので、良かったら召し上がって行ってください。」
 むろん、「明日お帰り」も「家族に連絡」も嘘である。当座をしのいで、帰宅願望のピークをやり過ごすのである。「方便」と言えば聞こえはいいが、やはり嘘には変わりない。

 自分が嘘をつきたくないのは、正直者だからではない。
 仏教徒として守るべき五戒の一つを破ってしまうからである。

 一、殺してはならない。
 一、盗んではならない。
 一、淫らな行為をしてはならない。
 一、嘘をついてはならない。
 一、酒や麻薬などを摂取してはならない。


 一番最後の「酒を摂取」がそうそう守れないので、せめてあとの四つくらいは守りたいと思っているのである。
 この仕事をやっている間は難しそうだ。


 こうして違和感を洗い出していくと、介護という行為の性質上、「仕方ないもの、止むを得ないもの」もあれば、スタッフの増員などの条件が整えば「改善できるもの」もある。暇をもて余している利用者への対応など、「何らかの工夫の余地があるもの」もある。そのあたりを見極めていくことがポイントだろう。
 また、こちらの見方・考え方を変えることで、取り組み方を変えられる場合もありそうだ。


 介護という仕事は、人の権利や羞恥心を踏みにじったところに成り立つ「やくざな仕事」である。
 プライドや喜びをもって精を出すのは全然構わないが、決して威張れるものではない。



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