老いへの不安 2011年発行。

 信じ難いことに、自分は初老期に位置しているわけである。五十代も終わりに近づいている。老人となるのを目前に控えているーーだがそれにしては貫禄もないし、深みもない。落ち着きもなければ他人に年輪を感じさせることもできない。言葉にも態度にも説得力を欠き、欲望は未だに生々しく、枯淡の境地には程遠い。

 どうやって「きちんと」歳を取ったらいいのか分からないのである。しかも自分の周囲を見回し、世代の近い人間を眺めてみても、彼らも上手く老人になれそうに思えない。

 と、慨嘆する著者による「老い」をめぐるモノローグ。
 書店に並んでいる良くある「老い方指南」みたいな鬱陶しいもの(曾野綾子に代表される)ではないのが好感持てる。「功成り名を遂げた六十手前の有能な精神科医にしてこのザマか。春日がこれほど惑うなら一般人が途方に暮れるのも無理はないではないか」という妙な安堵感を与えてくれる。


 著者が「うまく」歳を取る鍵を探るために利用した手持ちの駒は、幼少の頃からこれまでに出会ってきた「カッコいい、粋な」老人たちの思い出であり、いろいろな小説に描かれている年寄りの姿である。様々な老人たち、老いのカタチを掲げて、ああでもないこうでもないとあれこれ寸評しながら、著者自身の求める「老い」のカタチ、そして「老いとは何か」の輪郭を描いていく。 
 輪郭であって中味でないのは仕方ない。実際に自らが老いと対峙するその日まで、結局「老いとは何か」分からないのだろう。他人の語る「老い」は、それがいくら当事者の口から発しられたものであろうと、結局他人のものでしかない。その意味では、「幸せ」と同様かもしれない。

 初めてこの著者の本(『病んだ家族、散乱した室内』医学書院)を読んだとき、何より印象に残ったのは著者の「偏屈」であった。
 で、2冊目を読んで「やはり自分の印象は正しかった」と思った。
 春日自身が十分自覚している。

おそらく、わたしは老いていくに従って、偏屈で意地悪で寂しい老人となっていくであろう。ひと筆描きの描写で事足りそうな「いやなじじい」で片付けられてしまうだろう。
 
 当方だって人間関係が面倒なあまりに子供を儲けなかったし、友人だって驚くほど少ない。携帯電話は持ち歩かない(番号メモリーも、妻の携帯と当方の勤務先の二つしか登録していない)。仕事と散歩以外は引きこもった生活だし、小鳥よりは鉱物の結晶のほうがもっと心が慰められる。もっとも猫だけは例外だが。

 なんだか自分(ソルティ)と重なる部分が多くて苦笑してしまう。

 一方、この本を読んでいて妙に引っかかった部分がある。
 いろいろな小説の中に出てくる「老人」を原文を引用しながら紹介するにあたって、春日はまず作者を紹介する。多読家である春日が取り上げる作家たちは世間的には知られていない人が多い。吉行淳之介や井上靖や橋本治はともかく、塩野米松とか中原文夫とか高井有一とか聞いたことのない(当然読んだことのない)作家の名前が次々と出てくる。
 春日は読者の便宜をはかって、それらの作家について簡単に紹介してくれる。
 その際に、どういうわけか「芥川賞受賞歴がある」とか「芸術院会員である」とか、なんか世間的に座りのいいプロフィールを必ず付すのである。

 高井は昭和七年、東京都出身。いわゆる「内向の世代」の作家として括られ、このグループには・・・・(略)・・・・などが含まれる。芥川賞のみならず谷崎潤一郎賞や野間文芸賞など受賞歴は華やかで、現在は日本近代文学館理事長。

 一回や二回なら普通に流せるが、毎回この調子なんである。なんだか春日自身が世間的価値に追従している俗物みたいに思えて、いささか鼻白む。「芥川賞」も「芸術院会員」も、タレントの「二科展入選」というプロフィール同様、「どうでもよいこと」というのが「偏屈者」たる者のスタンスではないかと思うのである。(自分が「理想的な偏屈者」の勝手なイメージを抱いているせいもある。他人に勝手に抱かれるイメージを裏切るからこその「偏屈」なのだから。)
 これは「世の中にはこういう素晴らしい埋もれた作家がいるのだよ」と無知な読者に啓蒙したい一心から来る文学愛好家の世間的価値への不請不請の「歩み寄り」であろうか。
 それとも、春日自身が「芥川賞」に対するオブセッションを抱いているのだろうか。
 としたら、まだまだ十分若い。

老いることは、人生経験を積むことによって「ちょっとやそっとでは動じない」人間になっていくこととは違うのだろうか。難儀なこと、つまり鬱陶しかったり面倒だったり厄介だったり気を滅入らせたり鼻白む気分にさせたりするようなことへの免疫を獲得していく過程ではないのか。
 難儀なことを解決するのか、避けるのか、無視するのか、笑い飛ばすのか、それは人によって違うだろうが、とにかく次第にうろたえなくなり頼もしくなっていくことこそが、老いの喜ばしい側面ではないかとわたしは思っていたのだ。だが、世の中にはまことに嫌な法則がある。嬉しいことや楽しいことに我々の感覚はすぐに麻痺してしまうのに、不快なことや苦しいことにはちっとも馴れが生じない、という法則である。不快なことや苦しい事象は、砒素や重金属のように体内へ蓄積して害を及ぼすことはあっても耐性はできないものらしい。
 だから老人は鬱屈していく。歳を取るほど裏口や楽屋が見えてしまい、なおさら難儀なものを背負い込んでいく。世間はどんどんグロテスクになっていき、鈍感な者のみが我が世を謳歌できるシステムとなりつつある。