1995年フランス、ドイツ、ハンガリー、ユーゴスラビア、ブルガリア共同制作。

 170分の長尺。
 よほど面白くなければ最後まで見通せない長さである。
 が、退屈することなく見終えてしまった。それだけでも監督の力量は明らかだ。黒澤明レベルの語りの力、エンターテインメント性を持っている。

 何よりまずキャラクターの面白さが飛び抜けている。
 主役の二人の男――パルチザンの義賊にして詩人、世渡り上手な共産党員のマルコ(=ミキ・マノイロヴィッチ)と、陽気で豪放磊落でカリスマ性ある元電気工のクロ(=ラザル・リフトフスキー)――の個性的なキャラと奇天烈な友情関係が見ものである。二人はナチスに抵抗する愛国者であり町のヒーローであるのだが、ストイックで清廉潔白なところなどみじんもない。盗みをはたらき、同じ女を取り合い、武器を密造し、いつも酔っぱらって専属のブラスバンドを引き連れて踊っている。文字通り「酔狂」。非常に人間くさい、というかゴロツキに近い。
 彼等が生きる世界は、非日常を日常とする戦時下。非日常でこそ輝く二人のキャラとその破天荒な行動、ストーリー展開の突飛さが、あたかもピカレスク(悪漢)小説のような爽快感をもたらす。いわばルパン三世の世界だ。
 全編に横溢する諧謔精神もたまらない。
 ナチスのユーゴ侵略からユーゴ内戦、事態は深刻で悲惨でこの上なく悲劇的。なのにベタな悲壮感がない。登場人物の個性的なキャラや奇想天外なストーリーとあいまって全体としてスラップスティックコメディ(ドタバタ喜劇)となっている。途中、何度も吹き出してしまうシーン、にんまりしてしまうシーン、ご都合主義な展開に喝采をあげたくなるシーンがあった。実際に起こったことを考えれば、ある意味不真面目な描き方である。が、それで失敗しているかといえばそんなことはない。しっかりと監督のメッセージは伝わってくる。
 悲劇的なことを喜劇で語るのは、相当の天才無くしてできなかろう。“凡庸”とは遠く離れた才能、作品と言える。

 この映画を観ると、「リアル」と「リアリティ」の違いについて考えさせられる。
 原義(英語)ではどういう差があるのか正確なところ知らないが、自分で勝手に意味づける両者の違いは次のようなものである。

 リアル   =現実、写実主義、真に迫っている
 リアリティ =本当らしさ、真実の香り

 リアルとは、本物そっくりの造花、食品サンプル、精密な写生画、一分の隙もない時代考証、ストーリーの見事な整合性。事実、現実を正確に映している様である。
 一方、リアリティとは必ずしも事実や現実の再現、複製ではない。その現実を見て聞いて体験した作者が、そこから読み取った「世界」の真実、「ものごと」の本質の表現である。バラの造花よりは本物のバラから作った香水、食品サンプルの寿司よりはネタの旨さを想像させる酢飯、スーパーリアリズムで描かれたリンゴよりはピカソのリンゴ、ストーリーの整合性よりは人間心理のもっともらしさ、といったところか。
 人が感動するのは、必ずしもリアルに対してではない。日常生活においても、芸術作品についても、事実や現実をどう調理したか、その包丁さばきに対してより深く感動するのである。さばき方にこそ、作者の汲み取った真実が表れる。人はそこに共感するのである。

 『アンダーグラウンド』がリアルを目指していないことは一目瞭然である。
 クロとマルコが窃盗に成功し村に凱旋する冒頭シーンからそれは宣言されている。二人には専属のブラスバンドがついている。物語が佳境に入ると、どこからかそれは現れて二人の周りで景気のいい民族音楽風BGMを演奏する。二人が雇っているのか、村の英雄に対する町民有志のボランティアなのか、いっさい説明はない。まあ、ありえない。
 ヨーロッパの地下深くに根を張るパルチザンによって掘りめぐらされた都市間をつなぐ大通路なんて設定も妄想かナンセンスである。ありえない。
 対独戦争が続いているとだまされたまま20年間地下に潜伏して武器を作り続ける一団なんてのもギャグか不条理劇の世界である。ありえない。(もっとも日本には横井庄一や小野田寛郎の例があるから、なんとも言えないが。)
 つまり、クストリッツァ監督は最初から状況をリアルに描こうなどと思っていない。いくらナチスや連合軍の爆撃やユーゴスラビア連邦人民共和国の誕生やトリエステ紛争やチトー大統領の葬儀のシーンなどの実際の記録映像が、合成カットによって取り入れられていようが、それは決して物語にリアルさをもたらすことを目指してはいない。(その合成手法も、ゴルバチョフと永瀬正敏が共演していたちょっと前のカップヌードルのCMを思い出させる稚拙さである。)


 2003年に国家消滅するまでの70年間強、ユーゴスラビアとそこで暮らす人々が体験したのは、まともに語るも虚しい馬鹿げた出来事の連続である。そこにあるのは、壮大なアホらしさである。
 だから、クストリッツア監督はまともに(リアルに)語ることを拒否したのである。虚しく馬鹿げた形式(スラップスティック)で語らざるを得なかったのである。
 状況に対する監督自身の見方や思いが、物語を語る上での表現形式を自ずから決定した。観る者はその表現形式の内にこそ、監督のメッセージを読み取るべきであろう。人間のどうしようもない愚かさという真実(リアリティ)を、笑いながら悟るべきであろう。その点で、第二次世界大戦のドレスデン爆撃を舞台にしたカート・ヴォネガットのスラップスティック小説『スローターハウス5』を思い起こすのはあながち間違ってはいまい。

 マルコ、クロはじめ主要登場人物は最後には皆死んでしまう。
 亡くなった人々(の霊?)は、海上に浮かぶ緑の島に漂着し、そこで昔の仲間が一斉に会し、お互いの裏切りや罪を許し合う。ブラスバンドの賑やかな演奏の中、仲間の結婚式を祝う。古き良き日々の再来。
 その島では地上にいた頃の肉体的苦痛も消え失せている。カタワの青年バタは芝の上を自由に歩き回っており、どもりの薄のろイヴァンは言葉を取り戻し知性のきらめきを瞳に宿している。
 イヴァンは最後にカメラに向かって(観る者に向かって)独語する。
『苦痛と悲しみと喜びなしでは、子供たちにこう伝えられない。・・・・昔、あるところに国があった。』
 この瞬間、映画の冒頭からどもりの薄のろであり続けたイヴァンが、実はシェイクスピアにおける道化同様の狂言回しであったことに観る者は気づかされる。
 この映画が、『フォルスタッフ』や『テンペスト』同様の壮大なる人間喜劇であったことを悟るのである。


評価:A-


A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!