1993年アメリカ映画。

 クリント・イーストウッド監督の映画について、別記事で「ジェンダー映画である」と定義した。それは「男」を問う物語である、と。
 『パーフェクト・ワールド』もまた、その定義の妥当性を補強する作品である。

 仲間と共に刑務所から脱走したブッチ(=ケヴィン・コスナー)は、仲間の愚行がもとで、ある母子家庭に侵入し、その家の少年フィリップを人質として誘拐するハメになる。瞬く間に広がる警察の捜査網。陣頭指揮を執るのは警察署長のレッド(=クリント・イーストウッド)。かつて娼婦の母親に暴力を振るった男を殺めた十代のブッチを、少年刑務所に送り込んだ人間である。
 かくして、ブッチとフィリップの幾台も車を乗り換えての逃避行、レッド達の追跡が始まる。

 ブッチとフィリップには共通点がある。
 父親の不在である。二人とも幼い頃に父親と生き別れた経験がある。父親との触れ合いを知らない。
 フィリップはそれでも賢くしっかりした母親の愛情を受けて育った。女だらけの家庭、「エホバの証人」を信仰する母親のせいで他の家の男の子たちと自由に遊べない、外で立小便もできない柔弱な男の子になってしまったけれど。
 ブッチの母親は首吊り自殺をしている。ブッチは母親の愛情も十分に受けなかったに違いない。

 これがジェンダー映画であるのは、ブッチとフィリップの関係性に依る。
 逃走犯と人質でありながら、二人の関係は「父と息子」なのである。
 旅の途中ブッチは、缶詰のアスパラガスのように柔弱なフィリップを「男」にしようと訓練する。それは、まさにアメリカンな父親の役割、父性の発露である。その点で、この作品は同じイーストウッド監督の『グラン・トリノ』(2008年)に類似している。ほうっておいたらオカマかゲイになってしまいそうな隣家のアジア系の少年を、頑陋な退役軍人を演じるイーストウッドが矯正しようとする話である。(イーストウッドが勘違いしているなあと思うのは、父親のいないこと=父性の欠如がゲイやオカマをつくるわけではない、という点である。) 
 ブッチは、フィリップに対して父親としての役割を果たすことによって自らの中の父性を確認し、家族を捨ててアラスカに去った自分の父親の罪を代償しているかのようだ。彼の心の声が聞こえてくる。
「俺はこんなふうに親父に接してほしかったんだ。」
 一方、母や姉のいるあたたかい家庭から連れ出され、見知らぬ男に誘拐されたフィリップがそれを恐れているかといえば、そうでもない。道中フィリップは家に帰られる機会が何度か与えられたにもかかわらず、ブッチに付いていく決心をしている。それはフィリップがブッチに父親の姿を見ているからである。自分の成長に必要な「父性」の洗礼を無意識に求めているからである。
 その意味で、これはアンドレイ・ズヴャギンツェフ監督『父、帰る』(2003年)同様、男の子にとっての父親の存在意義、「父性」の意味を問う物語でもある。

 故河合隼雄が、次のようなことを述べている。 

 母性の原理は「包合する」機能によって示される。それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包みこんでしまい、そこでは全てのものが絶対的な平等性をもつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子供の個性や能力とは関係のないことである。
 しかしながら、母親は子供が勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子供の危険を守るためでもあるし、母ー子・一体という根本原理の破壊を許さぬためといってもよい。このようなとき、時に動物の母親が実際にすることがあるが、母は子供を呑みこんでしまうのである。かくて、母性原理はその肯定的な面においては、生み育てるものであり、否定的には呑みこみ、しがみつきして、死に至らしめる面をもっている。
・・・・中略・・・・
 これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子供を平等に扱うのに対して、子供を能力や個性に応じて分類する。極端な表現をすれば、母性が「わが子はすべてよい子」という標語によって、すべての子供を育てようとするのに対して、父性は「よい子だけがわが子」という規範によって、子供を鍛えようとするのである。
 父性原理はこのようにして強いものをつくりあげてゆく建設的な面と、また逆に切断の力が強すぎて破壊に至る面と、両面をそなえている。
(河合隼雄著『母性社会日本の病理』中公選書)

 子供は無条件に自分を受け入れ肯定してくれる存在をまず必要とする。それによって、ひとの中で自信を持って生きていくのに必要な自己信頼(=セルフエスティーム)、および自分を取り巻く周囲の世界に対する信頼感が得られる。それがないと、長じてから他者との信頼と愛情に満ちた関係を築くことができなくなる。それを与えるのが母性の役目である。(河合が言っているように、必ずしも父性=父親、母性=母親とは限らない。)
 だが、母性だけでは十全でない。母性は育ち始める子供の自我を下手すると「飲み込んで」しまう。とくに、母親と男の子の組み合わせの場合、コントロールが効かなくなる危険がある。母親は、本来なら夫に求めるべき優しさを息子に求め、夫に与えるべき愛情を息子に向ける。幼い男の子はそれを拒否する手立てを知らない。どこか「このままではいけない」と思いながら、居心地の良い関係性から抜け出すことができないまま、いつの間にか自立する力を失っていく。砂糖でできた蟻地獄のようなものだ。イーストウッドはこの陥穽にはまった男の姿を『エドガー』(2011年)で描いた。
 父性の役目とは、ほうっておいたらそのような母子一体の共依存に陥ってしまう関係を「切る」ところにあると言えるかもしれない。少年を「男」にするとか、マッチョイズムとかは全然関係ない。
 そこのところがマッチョの国アメリカでは誤解されているような気がする。
 そもそも「男」になるということが、暴力的になる、好戦的になる、女性蔑視を身につける、千人切りを達成する、多様性を認めない狭量な心を持つ、ということとイコールであるなら、なんと愚かな価値観だろう。なんて醜い「勲章」だろう。「女子供を守る」という幾分マシな価値観でさえ、守られている側からすればハタ迷惑な、独りよがりなものである。子供はともかく、男に本当に守られなければならない女など果たしているものだろうか。

 閑話休題。
 誘拐されたフィリップは父親代わりを果たしてくれたブッチになつき、母子一体の繭からの脱出をなし、最後にはすっかりブッチの味方になってしまう。
 これは「ストックホルム症候群」であろうか。『スノータウン』のジェイミー少年ように、加害者に洗脳されてしまった結果だろうか。
 そうではなかろう。
 ここがイーストウッドの凄いところと思うのだが、フィリップは最後にブッチに銃口を向けるのである。ブッチになつき、親しみを持ってはいるが、決してブッチの共犯にも仲間にもならなかった。ブッチに心酔するあまり、善悪の判断をなくすことはなかったのである。
 それを可能ならしめたもの、『スノータウン』のジェイミーとの決定的な相違ーーそれこそがフィリップの自己信頼、すなわち母親から与えられた愛情ではないかと思うのである。

 人が育つのには母性と父性、両方必要だ。
 (少なくとも男の子は・・・)


 

評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」  

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」
        「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!