2008年刊行。
著者は1957年生まれ。『がんばらない』で有名な鎌田實医師のもと諏訪中央病院の医療ソーシャルワーカーとして日本初の「老人デイケア」を企画運営。その後は大学(研究)と病院(実践)を行き来しながら、病院コンサルタント、自治体コンサルタント、講演活動、海外医療援助などを行ってきた。2008年より京都創生大学学長に就任。地域ケアを主眼とした高齢者福祉の研究者にして、開拓者にして、実践者にして、教育者にして、唱道者。
アイデア(頭)とハート(心)とパッション(胸)とフットワーク(足)と気力(肝)とが見事に揃った才能豊かな人である。はじめてその存在を知ったが、こういう人がいるのなら日本の高齢者ケアも先行き暗くはないぞ~、と思う。
地域ケアのコンサルタントとして著者自身が関わったいくつかの自治体の例が紹介されている。これが面白い。
① 北海道の本別町で2002年に始まった「やすらぎ支援事業」は、認知症介護の基礎的な研修を受けた「やすらぎ支援員」を町民の中から養成し、町内の認知症高齢者の家を訪問、話し相手になるサービス。介護保険の中では時間と仕事が規定されているホームヘルパーのできないところ、しかも認知症患者にとって最も大切なケアとも言える見守りとコミュニケーションをもっぱらとする。今で言う「傾聴ボランティア」のはしりであろう。
認知症患者を持つ家族のレスパイト(息抜き)を狙って始まった事業であるが、それだけに終わらず、認知症の本人がどんどん清明になってきてしまったという。
効果を知った厚生労働省がこの「やすらぎ支援員」を介護保険の制度として盛り込もうと打診したが、本別町の人たちは断ったらしい。賢明である。
また、本別町では2007年に「徘徊SOSネットワーク」を作った。
認知症高齢者の顔写真と特徴をあらかじめ町役場に登録しておいて、当人が行方不明になったときなどにその情報を公開し、地域全体が協力して探し出すシステムである。行政区域の境界線がしっかりしていて、人口も多くない地域だからできる良策である。
一方、個人情報保護法の点でなかなか難しい面もあるらしい。著者の言うように、この場合、個人情報より「いのち」だろう。
② 長野県の泰阜(やすおか)村は「老人は死ぬ義務がある」を哲学に、医療・福祉政策を進めている。「口からものを食べられなくなったら生物としては最後だ、そこから先は何もしない」という方針で延命治療をしないから、老人医療費は日本屈指の低さになっている。その代わり(と言う訳でもないだろが)、村は一人に月100万円以上かけて在宅ケアを支援している。
普通の町では介護施設に入ると月に50万円、在宅だと介護保険で36万円。ところが、泰阜村ではこの36万円ですむところを100万円かけて、在宅生活をぎりぎりまで保障している。本来、介護保険では36万円の限度額を超えた分は全額負担になるけれど、利用者に負担させるのは無理なので、その分を村が全額出しているのだ。しかも介護保険の分も、普通なら利用者が10パーセント負担するところを、4パーセントに軽減している。
③ 同じ長野県の栄村では、診療所長の次の一言、
「莫大な資金をかけて、役に立たない健康診断をやるくらいなら、村の健康診断を全部やめてしまえ。そのやめた費用で、村人全員をヘルパー教室に通わせろ」
その結果、村人のほとんどがホームヘルパーになってしまった。・・・・何かあったら、いちばん近い人が下駄履きで駆けつけることができるという意味で、俗に「下駄履きヘルパー」と呼ばれている。
ヘルパーの資格を取ったからといって即良い介護ができるとは限らないけれど、「何かあったら隣近所で助け合おう」という心構えを醸成するのに良いアイデアだと思う。認知症の人への対応のコツなど(特にNG対応)は、知っていると知らないとでは結果が全然違ってくる。そのような隣人に囲まれている認知症患者は落ち着いて住み慣れた村を散歩できることだろう。
このような地方でのユニークな取り組みをみると、こと福祉分野に限っては「井の中の蛙」は地方人ではなくて都会人なのかもしれないと思う。人口が少なくて、行政組織が小さい結果として政策の決定・施行までのスピードが速くて、高齢者の割合が高い(悠長に待っていられない)地方のほうが、柔軟な発想、思い切った先進的取り組み、住民の合意形成が安易なのかもしれない。
また、著者は福祉国家デンマークの認知症ケアの様子を紹介している。
欧米諸国の老人介護現場の様子を視察してきた日本人の誰もが感じたのと同様の感想を著者もまた述べている。
すなわち、欧米諸国のケアの理念の中心を成すのは「自立」と「合理性」である。
そのことはもう彼我の国民性の違い、民族としてのアイデンティティの相違であろう。日本人がこの2つを身につけるのは猫に犬芸を教え込むようなものである。なにも日本人が欧米人に比べて劣等だとか優秀だとか言うのではなく、ただ単に脳の構造に差があるのではないかと最近考えている。(たとえば、日本人が「風流」に感じる虫の声を、欧米人は雑音としてか聞けないというような・・・)
ここで役に立つなあと思ったのが、著者が紹介するデンマークでの認知症ケアのコミュニケーション・メッソードである。
○ 名前で呼びかける
○ そばに立つ
○ 話すときはからだにさわりながら
○ 目線を合わせて話す
○ 目をそらさない
○ 一度に話す内容はひとつだけ
○ 話はていねいにする
○ はっきりした声で明瞭に話す
○ 命令調にならないように留意する
○ 身振り手振りを上手に使う
○ 高齢者よりゆっくり歩く(追い越さない)
○ 高齢者を急がせない
う~ん。反省しきり・・・。日本では大汗をかいて、大声で話して、忙しそうにしていると、いい職員だと言われる。
ところが、デンマークでもドイツでもスウェーデンでも、この三つをやっている職員は「仕事ができない人」と思われてしまう。
最後に著者は、専門である認知症の地域ケアについてこうまとめる。
認知症は、アルツハイマー病や脳血管性疾患のように頭蓋内に病的変化があったり、身体的な廃用が原因であったりするから、その治療に医療が不可欠なのは事実である。しかし、認知症をひとり医学的治療の対象としたところから、現在の認知症の人に対するケアのあり方に多くの問題が生まれたとも考えられないだろうか。・・・・・少なくとも認知症ケアに関しては、認知症の人をとりまく家族や近隣の人々、周囲の環境まで含めたもっと大きな視点が必要であろう。
・・・・・・・
認知症の人とその家族を支えるには、「生活丸ごとモデル」で考えるしかない。医療も介護も看護も福祉も隣組もなんでもかんでもひっくるめてひとつになって「地域をあげて看る」。つきつめれば、これがぼくの認知症ケアの結論だ。
そう。
考えてみると、地域(地縁・血縁・社縁)の崩壊と呼応するかのように、認知症老人が巷に現れてきたのであった。
追記:著者プロフィールによると、鷹野和美は㈱ワタミの介護のアドバイザーをしているそうである。(2008年現在) こればかりは不可解である。信じがたいような介護事故を連発するブラック企業にいったい何をアドバイスしているのだろう?
そんなワタミを国会議員にしてしまった日本人。
日本人総「認知症」化なのか。