治りませんようにほか 003 2007年刊行。

 テーラワーダ(上座部)仏教では二種類の瞑想が奨励されている。
 慈悲(喜捨)の瞑想とヴィッパサナー瞑想である。

 慈悲の瞑想は、以下の4つのフレーズを心をこめて唱えるだけでいい。

 私が幸せでありますように(慈)
 私の悩み苦しみがなくなりますように(悲)
 私の願いごとが叶えられますように(喜)
 私に悟りの光が現れますように(捨)

 二巡目からは、上の「私」のところに、「私の親しい人々」「私の嫌いな人々」「私を嫌っている人々」「生きとし生けるもの」を入れて、それぞれの対象について慈悲喜捨を願っていく。
 簡単な瞑想であり、いつでもどこでも行うことができる。自分は、毎朝の読経の際に1セット唱えているが、それ以外のときも気が向いたら心の中で唱えるようにしている。駅の階段を昇るとき、ホームで列車を待っているとき、列車に揺られているとき、職場(老人ホーム)の更衣室で着替えているとき、休憩時間、帰り道の横断歩道の信号待ち、買い物途中のエレベーターで、皿洗い中、お風呂の中、トイレの便器に腰掛けて・・・。
 簡単な瞑想だが、不思議と唱えると自信が生まれてくる。いろいろな事象や人間関係が好転してくる。鏡に映る顔つきも、老けてきたのは仕方ないけれど、何だか吉相になってきたような気がする。

 ヴィッパサナー瞑想は、別名「気づき(念)の瞑想」とか「観瞑想」と呼ばれる。
 基本は座禅を組み、目を閉じて、身体や心に起こる現象をありのままに気づき、その場その場で「実況中継」していく。
 「(腹の)ふくらみ、ちぢみ、ふくらみ、ちぢみ・・・」
 「(足の)痛み、痛み、痛み、痛み・・・・」
 「(何かの)音、音、音、音・・・・」
 「退屈している、退屈している・・・・」
 「妄想している、妄想している・・・・」
 「怒っている、怒っている・・・・」
 「眠気、眠気、眠気・・・・」
 人間の認識の生じる六つの窓口(眼耳鼻舌身意)に注意を向けて、瞬間瞬間入ってくる六つの情報(色声香味触法)を丁寧に拾っていく作業と言える。
 これもまた一見簡単そうに見えるのだが、実は難しい。
 まず座禅し続ける難しさ。慣れないうちは15分も座っていると足が痛んでくる。
 どうにか慣れてくると、次は心があちこちに彷徨い出して、念が途切れる。「実況中継」を忘れて、今日の夕食のことや明日の仕事のことや助平なことを考えている。あるいは知らぬ間にぼっーとまどろんでいる。
 この瞑想を始めて4年以上になる今は、1時間以上足の痛みを感じずに座ることができるようになった。妄想にとらわれることも少なくなった。たとえとらわれても比較的短時間で気づいて「実況中継」に戻ることができるようになった。
 しかし、次の困難が待っていた。
 それは、暇な時間にあえてヴィパッサナー瞑想をしようという気力がなかなか起きないことである。
 忙しくて時間がないときほど瞑想がしたくなる。座りたくなる。休日が待ち遠しい。
 で、休日になって自由に使える時間ができると、瞑想しないでネットにかまけたり本を読んだり家事をしたり山登りに行ったり、こうしてブログを書いたりする。「時間はいっぱいあるから今でなくてもいい」なんて言い訳を頭の中でしているうちに、一日が終わってしまう。
 何が起こっているのか。
 なんでさぼりたいのか。
 答えはこれだ。 

生命の本能は、貪瞋痴です。本能に合わせて生きることは、楽に感じるのです。ですから人は、楽な道を選ぶのです。その楽な道は、貪瞋痴の本能なので、不善です。不幸の結果を出します。苦しむこと、不幸になることが目に見えても、人が不善の道を歩むのは貪瞋痴という本能のせいです。(標題書)

 瞑想は、本来はまったくやりたくないことなのです。心の流れにまったく正反対のことですから。「心がやりたくないこと、心が嫌がること」の第一位は、確実に「瞑想すること」です。競争なし、断トツの一位です。だから瞑想するためには、どうしても、精進が必要なのです。(同上)

 瞑想は本能とのたたかいなのだ。
 そりゃあ難しくてあたりまえだ。


 スマナサーラ長老によるアビダンマ講義第三弾は「心所」について。
 「心所」とは何か。
 心の中身(成分)のことである。

 仏教心理学の基本概念は、「認識」です。認識はどのように生まれるのか、認識の中身は何なのか、認識はどれくらいあるのか、という課題が仏教心理学です。

 仏教では、心とは「認識する働き(システム)」のことである。一つの生命に必ず一つ備わっている機能である。機能なので、そこに内容はない。
 しかし、言うまでもなく、心はいろいろと変化する。怒ったり、悲しくなったり、楽しくなったり、嬉しくなったり、嫉妬したり、恨んだり、後悔したり、退屈したり、落ち込んだり、有頂天になったり、疑ったり、物惜しみしたり、優しくなったり・・・。
 こうした感情や気分のことを心所と言い、心がいろいろ変化するのは、瞬間瞬間、さまざまな心所が心の中に溶けているから、とするのである。
 たとえてみれば、テレビ(受像機)=心、テレビ番組=心所といった感じか。テレビ自体は電波を受信し映像を映す働きを持った箱にすぎないが、モニターに流れる番組の内容によって、視聴者を悲しくさせたり、笑い転げさせたり、怒らせたり、退屈させたり・・・という違い(色)が生まれる。
 仏教ではこの番組内容(=心所)を52種類に弁別している。
 単純に言えば、人間の心に起こる感情の種類を分析し、善いもの、善くないもの、どちらでもないものに分類し、リストアップしたのである。

 このように感情を緻密に分析し言語化しグループ毎に取りまとめてリスト化していく意味はなんだろう?  

 心は水の如く、善いも悪いも何もない。その心に怒りが溶けたら、怒っている心になる。その心に慈しみの感情が溶けたら、優しい心になる。だから一人の人が、たまに怒りっぽくなったり、たまに嫉妬深くなったり、たまに慈しみの心になったりする。どれでもできるのです。
 我々にとって、心よりも心所が一番大事なことなのです。ただ生きている・認識しているということは、そんなに大事ではありません。どう生きているかということ、どう生きるべきなのかということが、大事なポイントです。

 そしてまた、ヴィッパサナー瞑想する観点からすると、意識に浮かんできた思考や雑念や感情や気分にとらわれないように、たちまち気づいて、命名して、「実況中継」するために、心所の種類をあらかじめ知っておくことは意義があるのだろう。


 以下、本書より引用&コメント(青字)。


● 無知とは

 厳密に仏教の立場から言うなら、無知とは、「すべてが無常であること、消滅変化していくこと、瞬間瞬間、そのときに現れる一時的な現象であること、だからものは存在しないこと、空であることを分かっていない状態」なのです。

 何ものにも「本来の自分」というものもない。私たちはよく「今はちょっと歳を取っていて調子が悪いんだ」などと言いますが、それは何かに比べて言っているのです。では、「本来の自分」とはどんな調子か、どんな歳か、どんな状態か、言えますか? そんな「本来の自分」というものはないのです。いつでもいるのは「その時々の自分」であって、一瞬前の自分は今の自分ではないし、今いる自分は次の瞬間の自分とは違うだろうし、その時々にいるだけなのです。

 「本当の自分」幻想はしつこいものである。「今はいろいろあって輝けて(はじけて)いないけれど、本当の自分はこんなじゃないんだ。」「今は巣篭もり中で、まだ本気を出していないだけ。」と思いながら数十年を過ごしてしまう。だが、その数十年の姿(=周囲から見られた姿)以外に「本当の自分」はなかろう。


● 反省と後悔の違い

 反省と後悔の違いは、反省がポジティブ志向で、後悔はネガティブ志向であることです。反省する人は、過ちをバネにして良い人間になる。後悔する人は、過ちを頭の中で再現して罪を加算してゆくのです。

● 最大の罪とは 
 仏教では、最大の罪は邪見だと説きます。邪見は見解、知識、思想、哲学などにかかわるものです。百人を殺すよりは、百人に何かを教えてあげることの方が簡単です。影響力のある人なら、たくさんの人々の心に邪見を植えつけることができるのです。人間は、財産よりも自分の見解に固執するのです。この邪見の伝統は、何世紀にもわたってでも拡げることが可能です。というわけで、邪見が他の罪より重いのです。

● 自業自得について  
 すべての生命は自分の業で生きているのです。自業は自得なのです。要するに自分の行為の結果なのです。犯罪者が裁かれて社会から隔離される。それは犯罪を起こした人の行為の結果なのです。幸福に生きている人々も、自分の為した業で幸福になっているのです。ということは、生命は「自立」しているということです。苦しんでいる人々の苦しみは、その人の為した業の結果なのです。人が人を殺したとしましょう。被害者は加害者のせいで死んだわけではありません。被害者に殺される業があったところで、心の汚れた愚か者に遭遇するのです。加害者が新たな重罪を蓄積したのです。被害者が加害者に対して恨みを持つ必要はないのです。

 これは微妙な問題である。犯罪被害者に向かって、「被害にあったのは加害者のせいではない。あなたの業(カルマ)ゆえだ」と言うのは慈悲にかける行為であろう。
 また、「自業自得」という言葉は一般に起きた悪い結果について使われることが多いが、本来は善いも悪いもない。「原因があって結果が生じた」というだけのニュートラルな意味合いである。


●自我について

 「自我を捨てなさい。執着を捨てなさい」と言われると、人は嫌な気分になる。「こんな大事なもの、捨てなさいと言われても捨てられるわけがない」と思います。ブッダの話を聴くと、大損するのではないかと思ってしまいます。
 しかし、自我を捨てても執着を捨てても何の損もありません。始めから自我がないのです。あるのは「自我があるという幻想」です。幻覚が消えたところで、良くなるのであって、悪くなるはずがないのです。

 かつてクリシュナムルティにこう質問した人がいる。
「自我を捨てることで、私に何の益(goods)があるのですか?」
「それ自体が良いこと(good)なのです」


● 二つの瞑想の違い

 慈悲喜捨の瞑想は、「どうすればみんなと仲良く幸福で生きていられますか」という問題に答えてくれる。ヴィッパサナー瞑想は、「生きること自体をどうやって乗り越えられるか」という問題に答えを出す。だからまったく正反対なのです。生命と一緒にどうやって生きていられるか、ということと、どうやって生命と関係なくなるか、どうやって輪廻から脱出するかという二つだからです。


 評論家の宮崎哲弥が「仏教の劇薬性」という言葉を使っているが、本来の仏教の革新性というか破壊性は途方もないものである。
 悟ったばかりのブッダはこう考えた。

 苦労して体験した。今語る気持ちは起きない。
 欲と怒りに染まっている人々に、この法は理解しがたい。
 これは逆流を進む完全たる道。深遠で精密である真理は、無明の闇に覆われた、欲がある人には発見できない。


 仏教は思想や理論や言葉が難しいのではない。
 人間の本能に逆行するがゆえに、実践が難しいのである。


 サードゥ サードゥ サードゥ