浦河べてるの家を知ったのは90年代中頃だった。
治りませんようにほか 002 仙台の自然食品店「ぐりん・ぴいす」にちょくちょく出入りしていて、店主の加藤哲夫さんから店にあった一本のビデオを借りた。それが、べてるの家の日常をありのままに記録した四宮鉄男監督のドキュメンタリー『ベリー・オーディナリー・ピープル』(1995年)だった。

 このビデオは実に衝撃的で面白かった。
 家族や周囲をさんざん梃子ずらせてきた精神病患者たちが北海道浦河町という辺鄙な土地に全国から集まって、治療を受けながら共同生活を送る。
 と言うと、高い塀に囲まれた精神病院の敷地内で医療者らによって管理・監督された作業所ベースの生活を想像するのが一般であろう。自分はそうであった。薬漬けの生気を失った虚ろな目をした患者たちが院内をウロウロし、時に奇声を発し、時にスタッフや仲間に暴力を振るい、時に脱走し、手がつけられなくなると拘束衣を着せられ密閉された保護室に収容され、時に看護職員によって虐待を受ける。一度入ったら死ぬまで外には出られない。遠隔地という言い訳が立つから家族もほとんど訪れない。体のいい厄介払い。
 こういったイメージは小説や漫画や映画からつくられたものではある。が、宇都宮病院での看護職員による入院患者への暴行致死事件(1985年)を受けて、入院患者の人権保護、社会復帰についての指針が定められた精神保健法が制定されたのが1987年であるから、90年代ではまったくの誤解・偏見というわけでもあるまい。

 ビデオはそうしたイメージを裏切るような患者たちの日常生活が映し出されていた。
 町の中の民家での患者同士の不器用な共同生活。「三度の飯よりミーティング」という標語どおり頻繁に行われる患者同士の話し合い。「統合失調症爆発型男性依存タイプ」といったように病名を患者自身がつける風習。「安心してさぼれる会社づくり」をモットーとする地元特産の日高昆布の加工販売業を立ち上げ採算ベースに乗せてしまう。そして、患者たちが町民の前に顔と名前を出して自らの妄想や幻覚を語りグランプリを競う、という前代未聞のイベント「幻覚妄想大会」
 世間的常識をひっくり返し、タブーやコンプレックスを逆手にとって、ある意味「どん底で開き直って」生きている患者たちの姿は、ユニークかつ斬新であった。それはまた常識や世間的価値や生産性第一主義にのっとって汲々と生きている健常者の世界の息苦しさ、いびつさを、背後からそっと忍び寄って覆面を剥ぐようにさらけ出してしまい、ビデオを見た後に「いったい健常とは何だろう?」と自分に問いかけずにはいられなかった。 


 こうした活動のすべての面で基盤をなしているのが、当初から変わることなく貫かれてきた当事者主義の考え方である。すなわち当事者こそが中心であり、医者も家族も地域も社会も、当事者の代わりになることはできず、当事者本人が自らの問題について考え、選び、決めながら生きてゆくことがたいせつであり、またそれを応援することがたいせつだという考え方、というよりほとんど反射運動として身体化され、日常に浸透しきった作法、暮らしのあり方は、「三度の飯よりミーティング」、「弱さを絆に」「降りていく生き方」などの巧みなキャッチフレーズによって捉えなおされ、あまねく人口に膾炙している。(標題所より引用、以下同) 
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 この頃のべてるの家の世間的価値とは違ったありようを一言で表現し、その後NPO業界の立役者となった加藤哲夫さんはじめ全国のオルタナティブ系の市民活動グループの心を捉え、パラダイム転換とも言える新鮮な視点をもたらしてくれた言葉は、「弱さ」だったのではないだろうか。「勝ち組・負け組」なんて言葉が流行るずっと前に、すでに一部の人たちの間では、「弱さ」の持っている柔軟性や人と人とを深いところで出会わせ結びつける働き、人を謙虚にさせ自然維持にも持続可能性ある社会にもつながるようなエッセンス、めまぐるしい競争社会の中で「強さ」を求め鎧をかぶって必死こいて闘っている個人が置き去りにしてきた何か懐かしいもの、が嗅ぎ取られていたのである。 
 

 私たちはここで、べてるの家でくり返される数々の有名なスローガンが、その基底にじつにシンプルな、ほんとうに当たり前な、もうひとつのメッセージを伝えつづけていることに気づくのではないだろうか。すなわち、そのままでいいといい、問題だらけの人びとが問題だらけの日々を送り、なおかつそれで順調だといい、そうした人びとが弱さを絆につながる生き方が、絶えることなく自らに伝え、仲間に伝えつづけているのは、あなたは生きていてもいい、存在してもいいのだというメッセージだったということに。

 べてるの家のビデオを見て、自分もまたふと肩の力が抜けるような安堵感と解放感を得たのであるが、それはとりもなおさず自分が、競争社会の中で「強さ」を求め鎧をかぶって生きてきて、鎧の中で悲鳴を上げていたからであろう。おそらくは加藤哲夫氏も。
 以来、「弱さ」という言葉、そしてべてるの家の存在は、自分の中に根を下ろした。

 それから15年以上が過ぎて、べてるの家はどうなっているか。
 その答えが本書である。


 一読、とりたてて大きな変化があったわけではない。去っていく患者と、べてるの名を聞いて藁をもすがる思いで全国からやってくる患者とによって代謝を繰り返しながら、問題だらけの患者たちの波乱含みの毎日を積み重ねながら、数々の名作キャッチフレーズどおりの日常が送られている。
 その中で、2004年に起きた竹内裕人という一人の青年の死が、強い刻印を残す。
 警察沙汰、新聞沙汰となった殺人事件が起きたのである。


 統合失調症で浦河赤十字病院に入院していた竹内さんが、病室で寝ていたところを知りあいの患者に襲われ、刃渡り十五センチの包丁で何か所も刺されるという出来事だった。夜半の病室からのうめき声で当直看護婦が事件に気づき、ただちに竹内さんを救急車に搬送して救命措置を施している。しかし懸命な治療にもかかわらず、発見から三時間後、医師団は竹内さんの死亡を宣告しなければならなかった。


 容疑者は、おなじく統合失調症で長期入院中の四十二歳の男性患者である。きわめて偶発的なことから、竹内さんが自分をねらい、刺そうとしているのではないかという被害妄想を抱くようになり、このままではやられてしまうという恐怖感から犯行に及んでいる。


 ニュースは地元の新聞やテレビによって大きく報じられ、記者たちの矛先は当然ながら病院の管理体制や責任のあり方へと向かっていった。

 
 加害者も被害者もともにべてるの家のメンバーであり、浦河赤十字病院の精神神経科部長であると同時にべてるの家設立当初から深く関わってきた川村敏明医師の患者でもあった。
 著者は、論点のかみ合わない記者と川村ら病院側の記者会見におけるやり取りや、事件を機に湧き上がった地元のパニック、病院やべてるの家の方針に対する轟々たる非難を詳述している。
 曰く「全国からヘンな人を集めていい気になっているからこんなことが起こるのだ」
 
 被害者、加害者双方の家族も、川村医師はじめ病院関係者も、べてるの家の精神的支柱とも言えるソーシャルワーカーの向谷地生良をはじめとするサポーターも、どんなに辛い日々を過ごしたことだろう。今こそ精神障碍者に対する世間の偏見、風当たりの強さを嫌というほど感じたことだろう。 
 自分たちがこれまでやってきたことに対する疑念こそ生じなかっただろうけれど、風当たりの強さに疲弊した日もあったに違いない。
 
 著者は事件の様相に続いて、竹内裕人の葬儀の模様を描いている。 
 この場面がこの本の中の様々なエピソードの白眉、クライマックスだろう。
 葬儀には、べてるの家のメンバーやサポーター、病院関係者はもちろん、被害者、加害者両方の家族が参列した。被害者の父親・竹内東光(はるみつ)氏の意向が強かったのである。
 紋切り型でない、感動的な葬儀の最後に東光氏は語る。

 「至らない親ですが、いろんなこと、してやれなかったんですが、ここ、浦河に来て、いっぱい、こんなにも多くの方に支えられていたんだなあということをあらためて感じて、とても悲しみはあるんですが、うれしい気持ちもあります」
 参列者に感謝の気持ちを伝えた東光さんは、涙でとぎれながらさらに「二つ、お願いがあります」と述べている。
 ひとつは、息子さんの裕人さんが浦河に来てからはっきりと変わってきたこと、その変化をもたらした「川村先生や病院、べてるや地域の方々」に、「こういうすばらしさ」がぜひつづくようにしていただきたいということだった。
 もうひとつは、加害者となった患者への応援である。加害者もまた長く病気で悩んできたにちがいない、その患者が立ち直れるように、どうかみんなで助けてやってほしいという訴えだった。
 

 このようなセリフを葬儀の場で、息子を殺された遺族に発言させるほどの篤い信頼と縁、また葬儀に参列した人々の心の中にその思いが違和感なく入っていくだけの深く醸成された文化。それこそがべてるの家二十年の蓄積の賜物ではないだろうか。
 
 最初に出会ったとき、べてるの家のキーワードは「弱さ」だった。
 本書を読み終えて、今それは別の言葉に取って代わったように思われる。 
 それは「苦労」であり「苦しみ」である。


 「人の視線が気になる」「他人の価値を生きてしまう」「異性への依存がやめられない」「感情をコントロールできない」「頭の中で命令する声に逆らえない」・・・。
 べてるの家は「生きることは苦」というブッダの言葉を身をもって証明している人びとの集まりである。メンバーはみな、健常な生活を送るスタートラインに立てずに苦しんでいる。
 別の観点から見れば、健常人は「生きることは苦」という事実から目をそむける技術や器用さを持ち合わせている。べてるの人びとは、真面目すぎて、不器用すぎて、それができない。
 

 べてるの家には、人間とは苦労するものであり、苦悩する存在なのだという世界観が貫かれている。苦労を取りもどし、悩む力を身につけようとする生き方は、しあわせになることはあってもそれをめざす生き方にはならない。苦労し、悩むことで私たちはこの世界とつながることができる。この現実の世界に生きている人間とつながることができ、人間の歴史へとつながることができる。
 
 苦しみこそが人と人とを、人と世界とを結びつける。他者の置かれている境遇を想像させる力を持つ。
 だから、こうも言える。
 幸福であるとは、幸福を追い求めるとは、ある意味、無慈悲な行為なのだ。
 

 べてるの家には、人間存在の原点がある。そこから乖離することなく(乖離できずに)日々そこと向き合いながら生きている人々が遠い浦河の地に存在することが、苦しみという水溜りをうまいこと避けながら、よりなまぬるい生を生きている自分の支えになる。
 べてるの家は、日本に住むすべての人の「苦のセーフティーネット」なのである。



 加藤哲夫さんが亡くなって3年目となる命日の朝に。