2007年刊行。

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 「医者が介護の邪魔をする!」とは挑発的なタイトルである。
 一体誰の発した言葉なのだろう。
 本書を読む前にいくつかのパターンを考えた。

1. 勇気ある介護者の告発
2. 謙虚な医者による自戒を籠めた反省
3. 上記の発言をする傲慢な介護者に対する医者の嘆き、怒り
4. 客観的取材をもとに辿り着いた第三者(ライター)の問題提起 


 正解は2番。
 著者は医師なのである。
 まあ、こんな過激なセリフでもって医者を告発できる介護者はまだいないだろうから、1と3は問題外であった。


 著者(やじまたかね)は、1933年長野生まれ。信州大学医学部を卒業後、外科医としての道をひたすら邁進する。「医学の最新知識と医療技術、とりわけ早期発見によって、病気はあらかた治るはずだ」という確信をもって。
 ところが、徐々にその信念がぐらついてくる。

 三〇代の私もひたすら検査に手術に励んだ。四〇代になっても、誤診や手術のミスは少なく、ほぼ成功するものと思っていた。しかし、五〇代になって、日常診療の中で「不必要な検査や手術があるのではないか」と心に引っかかるようになってきた。本当の医療の実体に触れてきたのだ。


 私は六〇歳に至り、主観的な診断に頼り人を切り開く快感のために手術をしていたのではないか、そのために業務上過失致死もどきの手術を数多くしてきたのではないかと悩み始めた。同時に、日本の医学が科学的実証性を軽視していたため、人々も根拠のない医学をひたすら信じ救済されていることを信じて疑わない状態に陥っていったのだろう、と考えるようになった。


 このような真実に目覚めるに際し、著者自身が五〇代はじめに手術入院している経験が大きく影響しているようである。一患者の立場になって、はじめて見えてきたものがいろいろあったらしい。
 この目覚めが著者をして、政・官・学・医療者・企業・マスコミによって仕組まれ作り出される「健康幻想」と、そこから莫大な利益と共に生み出される多くの医原病患者の存在、すなわち現代医療の持っている詐欺的構造に気づかせしめたのである。 

 この医者を頂点に、富士の裾野に広がるように医原病を作る業種がある。厚生労働省・自治体・保健師・医師会・製薬会社・検診業者・健康食品会社・医療機器メーカーやマスコミ・タレントなどである。そして、騙されて「自分を病気にしてしまう」一般の人々が底辺にいる。


 国民の生活は、細部にわたるまで国によって管理されている。その中で、医療についても画一的な健康観のもと、誕生から死に至るまで国民を科学的根拠のない方法でコントロールしつくす。このような権力的な管理主義こそが、医原病の元凶なのでないだろうか。戦争中の兵隊検査と結核検診は、決して国民のために行なったわけではないことに注意すべきだ。

 蓋し正論というべきだろう。
 無意味な検診、無駄な手術、無益な(というより「百害あって一利なし」の)投薬、無責任な健康法の宣伝があふれかえっているのは、医の素人が見てもわかる。
 著者はこんな面白い話を例に挙げている。


 一九七〇年代にボゴタ(現サン・タ・フェ・デ・ボゴタ、コロンビア)、ロサンゼルス、イスラエルで医者のストライキが起きた。いずれもストは五〇日前後におよび、この間救急医療以外は一切行われなかった。その結果、これらの都市の死亡率がそれぞれ三五パーセント、一八パーセント、五〇パーセント減少し、手術の件数も数十パーセント減少していたという驚くべきことが起きていた。

 現代医療を告発する第1章において、著者の舌鋒は誠に鋭い。
 当然の成り行きとして著者は、このような世界から身を引き、自身が正しいと思う医療のあり方を追求することになる。 

 もともと生活習慣病に伴う疾患は、老化が本質で完治しないのが特徴である。そこで私は方針を変えた。手術はできるだけしない、余計な検査もしない、疾患との共存をはかる。したがって、高齢者の健康の維持と、どこか嘘っぽい健康常識の誤りの啓発を住民にすることを以後の医療の目標にしようと考えた。

 そこで、長野県上田市武石に診療所を開設したのである。
 第2章では、武石診療所を基点として、地域で在宅ケアを実践する様子や実例が紹介されている。
 著者が「地域で生きて家で死ぬ」、いわゆる在宅ケアに拘る理由はなんだろうか。 

 終末期は各自自分のものであるから、百人百様である。それを決めるのは本人か家族であり、私たち医者は、どんな死に方でもその人の望むように援助すればよいのである。
 しかし、現在の多くの老人の死には大切なものが欠けている。それは死にゆく老人が身につけていたもの、とくに死に臨んで凝縮してきたその人の生き方、表情、体つき、人に対する愛、闘病態度、勇気、残した仕事への情熱、家族への労りなどを引き継ぐ場がないことである。また子どもや孫たちによく理解されぬままに逝くことである。老人ホーム、病院、老人保健施設等々、どれも場所として不適格である。


 様々な在宅ケアの現場を創出し、多くの老人やその家族と関わってきて、様々な死を看取ってきた著者の言葉だけに、そしてまた、自ら後期高齢者となり人ごとでない自分のこととして死を予感している人間の述懐だけに、説得力がある。 

 日本はいま超高齢化社会・後期高齢者社会であり、それゆえにこの世代の疾患や脳卒中の後遺症、また認知症などが、主要な介護対象となっている。生活習慣病などという言葉が流行しているが、本質は習慣ではなくて、老化に伴う疾患と言うのが正しい。治療しても治癒しないのが特徴である。だからこれらの障害に対して、従来型の医学も先端医療も歯が立たないのである。これを「キュア(救う)よりケア(介護)の医学」と言う。この原則がより重要な時代となったのである。
 
 自分は老人ホームで働きはじめてまだ1年半しか経っていないが、それでも痛切に感じることがある。
「医療がのさばると、とたんに非人間的になる」ということだ。
 医療は、身体を治す対象としてしか人間を見ない傾向にある。故障した機械を修理するのと同様に、人間の体を元通りにしようとする。少しでも「健康」に近づけようとする。少しでも長生きさせようとする。
 若い、将来のある人についてならそれでもよいかもしれない。
 しかし、死を間近に見据えている老人たちにとって、もっと重要なことがあるのではないだろうか。ある意味、「健康」より重要な、ある意味、「生命」より重要な。
 著者の指摘する「現在の多くの老人の死に欠けている大切なもの」がそれである。
 いまの医療はそこを無視する。却下する。
 介護職の存在意義は、本来ならば、そこに焦点を当てたものであるべきじゃないかと思うのだが、介護現場というか福祉医療の現場において、医師>看護師>介護士のヒエラルキーは頑としてある。介護職は、医師や看護師の指示に基づいて介護せよ、という圧力が暗にあるのだ。
 だから、本人の意志に関わらず無理やり食べ物を口に運んだり、車にガソリンを補給するように吸い飲みで水分を与えたり、副作用が効果を上回るんじゃないかと思うほど多量の薬を毎食毎にきちんと服用させたりしなければならない。
 介護職は、医療の手先なのだろうか?
 だが、この圧力は、単に職業としての資格の優劣のみによるものではない。
 著者が言うように、個人の老い方や死に方を医療保険・介護保険のもとに管理しようとする国のあり方が一方にあり、「老い」「死」に対する覚悟を持てず健康幻想に振り回されている現代日本人の右顧左眄が一方にあり、それらの総体がダイダラボッチのように国土を覆って、医療と介護の心地よいパートナーシップを阻んでいるのである。

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 自分が最後まで思いつかなかったいま一つのパターンがあった。
 

 5.「医者が介護の邪魔をする!」ということを告発した利用者自身の声


 本当はこれが一番必要なのである。