奥多摩町は東京都で一番大きな町であり、行政区画である。東京都全体のなんと1/10(225.63平方キロメートル)を占めている。94%が森林というから、いかに東京にまだ自然が、田舎が、残っているか分かるであろう。
日原は奥多摩の最西端にある。北は埼玉県秩父に接し、西は山梨県丹波山村に接している。まさに、東京の大奥。
奥多摩駅からここまで路線バスが走っている理由の一つは、日原鍾乳洞の存在が大きいだろう。都の天然記念物に指定され、関東随一の大きさを誇る自然の芸術は、奥多摩観光の目玉の一つになっている。鍾乳洞が発見されたのは1200年前(平安時代)で山岳信仰のメッカとして人を集めたと言う。(役の行者発見説もある)
江戸時代、日原は白箸(正月に使う白木のままの両細の箸)の産地として名を馳せた。第2次大戦後からは石灰石採掘が主産業となり、最盛期には社員寮やダンスホールが立ち並ぶ賑やかな光景が見られたらしい。今はかつてのような賑わいはなく、静かな山歩きを恋いもとめる自分のようなハイカーを積んだバスが到着する一瞬だけ、晴れやかなざわめきが山間に放たれる。
●歩いた日 10月8日(火)
●天気 晴れのちくもり
●タイムスケジュール
08:01 JR青梅線・奥多摩駅着
08:10 鍾乳洞行きバス乗車(西東京バス)
08:37 東日原バス停着
08:45 歩行開始
11:15 一杯水避難小屋
11:50 三ツドッケ山頂
12:45 仙元峠
13:10 蕎麦粒山頂上
昼食休憩
14:00 下山開始
15:00 一杯水避難小屋
17:25 東日原バス停着
歩行終了
17:47 奥多摩駅行きバス乗車
18:14 奥多摩駅着
● 所要時間 8時間40分(歩行6時間40分+休憩2時間)
終点の鍾乳洞の二つ手前に、蕎麦粒山登山口のある東日原停留所がある。
バスを降りると、緑の山々に抱かれた山あいの集落の長閑でまったりとした朝の光景に、山登り前の無駄な気負いが抜けていく。日原川の渓流の奥に見えるきれいなおにぎりは六つ石山(1497m)だろうか。
表示板にしたがって舗道から登山口へと入るが、いきなり迷ってしまった。山道を登っていくと、どうしても青い屋根の民家に突入してしまう。舗道に戻って別の入り口を探すが、舗道もまた行き止まりになる。
おかしい。
もう一度表示板のところから入る。やはり民家にぶちあたる。
「ひょっとして・・・」と思いながら民家の軒先に侵入すると、そこから家の左側を回って後ろに抜ける道があった。裏手の崖に「一杯水→」という表示がある。
ちょっとわかりにくいぞ。
手持ちのガイドブックにも詳しく書かれていなかった。自分のように図図しくない人間は、なかなか人の家の軒先に勝手に入り込めないのである。
これで約30分のロス。
しばらく杉の植林の中をジグザグ登っていく。10月にしては暑い。あっという間に体は汗だくとなる。
高度を上げていくと、杉林にカエデやブナが混じりだし、その割合が反転していく。目にやさしい広葉樹のみどりが朝の光をチラチラと反射し、涼やかな秋風を誘ってははぐらかす。「山に来た!」という喜びが湧き上がって来る。
足元を見ると、一面のどんぐり。帽子をかぶったままなのもあって可愛い。
日陰に入れば、秋の味覚、きのこ。いろいろな種類がある。
すわっ!
数メートル先の木陰から何か黒いものが飛び出した。
熊か?
立ち止まって様子を伺う。
すると、猿が二匹追いかけっこしていた。視界から消えたところで、逃げている一匹は捕まったらしく、大きな悲鳴をあげていた。
猿でよかった。
鈴を取りだしてリュックにつける。
木々の間から周囲の山々が見えてくると、足取りも軽くなる。
陽が上り詰めた頃に、一杯水避難小屋に到着。
立派な堅牢な山小屋で、板敷きの貼ってある中は広くて、まず清潔である。
作業服を着た若いイケメンが二人、清掃作業をしていた。どうやら、小屋の管理を委託されている林業会社の社員らしい。こういう人たちのおかげで、快適安全な山歩きができるというものである。
感謝。
ここから最初の目的ピークである三ツドッケに向かう。
小屋の入り口の脇にある表示にしたがって登っていく。
なんだかわかりにくい道である。表示がないのはともかく、正しい道を示すために木に結びつけられている赤テープもない。
踏み跡らしく見えるところを辿って、登り詰めたところは岩場であった。
何の表示もない。
ただ、「山」と刻まれたコンクリートの柱が土に埋まっているばかり。
ここが山頂か?
富士山まで望める眺望の良さとガイドブックにあるのに、木々にさえぎられてたいした眺望が得られない。
不思議に思い、山頂を越えてもう少し先まで行くと、行き止まりであった。
そこから視線を上げると、数十メートルほど先に、山頂になにやら柱が立っている山が見えた。斜面の一角が切り開かれて、眺めが良さそうだ。
・・・・・。
どうやら道を間違えたらしい。
三ツドッケの三つのピークのうち、主要でないものに登ってしまったようだ。
ちゃんと道なりに来たつもりだったのに。
今さら再挑戦する体力も気力も起きない。
あきらめて、来た道を引き返す。
と、ここでまた道に迷ってしまった。
さきほど登ってきた道を下りたつもりが、いつの間にか見覚えのない景色に取り囲まれている。
困った!!
原因は二つある。
登りの時は目の前に続く道しか見えないが、下りの時は他のルートから上がってくる道も見えるから、もっともそれらしい道を選んだつもりでも、登りの時とは違うルートに入り込んでしまうのである。
山道はどれも同じに見える。登ってきた時の風景をいくら記憶したところで、逆から辿るときは役に立たない。
そして、表示や赤テープがないこと。これは決定的だ。
・・・なんて理由を考えていても仕方がない。
なんとか一杯水避難小屋に戻らなければ。
とたんに、周囲の風景がよそよそしくなる。
ちゃんとしたルートを辿ってきたときは、それがどんなに険しかろうが、きつかろうが、親しみ深いものと感じられていた山が、一瞬にして他人の顔になる。
ああ、こんなふうにして人は山で迷い、遭難するんだ。
こんな大奥では携帯のアンテナはもちろん立っていない。
ここでもし遭難したら、誰がそれを知るだろう。
今日、蕎麦粒山に登ることは誰にも話して来なかった。
バスの運転手も、一緒に停留所を降りた2,3人の客たちも、自分の顔や恰好は覚えていまい。山道では誰とも会わなかった。
頼りは、小屋で会った作業員二人だ。
ああ、もしここで遭難して死ぬことになったら、何を一番後悔するだろう。
・・・なんてマイナスばかり考えていてはいけない。
しっかりしなければ。
こういうときは下り続けてはいけない。
むしろ、さきほどの山頂までいったん戻ってやり直したほうがよかろう。
そう決めた瞬間、前方数メートル下の草陰にT字型した表示板らしきが見えた。
助かった!
そのまま下ると、避難小屋と蕎麦粒山を結んでいる尾根道に出た。
どうやらさきほどの山頂から斜めに下ってきたらしい。
ワープして、時間を節約したってことか。
ちょっと道に迷っただけではあったが、パニックにつながりかねない心細さには、納得ゆく理由がある。
この周辺で、6月に行方不明者が出ているのである。
高橋清さん(65)は、今年の6月4日に日原から山に入り、途中数回の目撃を最後に、消息を絶っている。青梅警察署の連絡先の書かれた手作りの看板が、山道のどの表示板にも吊り下げられていて、ふもとからずっとそれを見ながら登ってきたのであった。
つまり、ここら一体は遭難しやすいのである。
山(上り下り)を迂回するために山腹に付けられた道を「まき道」と言うが、この蕎麦粒山にいたる間のまき道は、結構険しい箇所が多い。片側が断崖絶壁で、道幅が狭く、しかも路肩が緩んでいる箇所がいくつもあった。
つくづく過信は禁物である。
蕎麦粒山の山頂はごつごつした岩が立ち並ぶ、なんだか古代の祭祀場みたいな雰囲気であった。眺望は奥武蔵方面に開けているが、あいにく雲が湧き出してきて視界は冴えなかった。
岩と岩に渡した板切れに座って遅い昼食をとる。
静かさはこのうえない。
紅葉シーズン前の平日とはいえ、山中で出会ったのはくだんの作業員を入れて5人ばかり。遭難リスクと背中合わせに手に入れたこの静寂に骨の髄まで浸る。
手持ちのガイドブックに乗っている奥多摩の山はほぼ登り切り、蕎麦粒山だけが最後に残っていた。
それは下山路――と言ってもUターンして往路を戻るのだが――が長いためである。
自分は右膝に爆弾を抱えていて、登りは平気だが、下りが長く続くと痛みが出てくる。
いったん発生すると、どんどん痛くなる一方で、速度も落ちる。日の短い季節なら、山中で日没を迎えることになってしまいかねない。
そうした懸念から、後回しになっていたのであった。
今回チャレンジしたのは、17時くらいまでは明るさが残る時期であり、膝の調子も悪くはなかったし、翌日も仕事休みだったからである。
傾斜のゆるい一杯水避難小屋までの復路は問題なかった。
そこから長い長いヨコスズ尾根を下っている途中で、疼き出した。
山頂付近で拾った天然の杖とサポーターと途中休憩のおかげで、しばらくは速度も保てた。
が、広葉樹林が杉林に移り変わるあたりで、あと1時間あまりでゴールという地点で、爆弾がはじけた。
一足つくごとに痛みが増していく。
もうこうなると速度を落として、膝を曲げないように歩くしかない。
だんだんと空が暗くなって、風が冷たくなってくる。
下山路の長いこと!
こんなに延々と歩いてきただろうか。
またしても道を違えたのではなかろうか。
あるいは、時空に穴が開いていて、SFかホラーのように同じ区間を何度も歩かされているのではないか。
そう思ってしまうほどに、延々と、延々と、同じような杉木立が続く。
やっと、登山口にある民家の青い屋根が見えたときのうれしかったこと。
登山口から舗道に降りて、高台から暮れなずむ日原の集落を見下ろす。
薄暮のブルーに染められて、黒々とした谷の中にゆっくりと沈み込んでいくふうである。
バス停に到着して10分経つと、あたりは闇に閉ざされた。
帰りに寄るつもりであった奥多摩温泉「もえぎの湯」は本日休業。
青梅線の河辺(かべ)駅で降りて、駅前のタウンビル5階にある「河辺温泉・梅の湯」で疲れを癒す。
なかなか良い泉質である。
これから展望のさえるシーズンが始まりますね。
お互いに事故にだけは気をつけて山歩きを楽しみましょう。
good luck!