浅草物語 1988年刊行。

 ゲイの業界用語に「フケ専」というのがある。「フケ=老け=高齢者」をもっぱら愛好するゲイの若者(と言っても「フケ」でない世代)のことを言う。
 老人ホームで働いている自分は「フケ専」なのであろうか。
 いやいや、自分がそろそろ「フケ」に入りかかっているのだから、自分を好きになってくれる若者が仮にいたとしたら、彼こそ「フケ専」の汚名(笑)を与えられることだろう。
 考えてみれば、日本は「総フケ社会」になりつつある。日本人の平均年齢は44.9歳だという。(2011年) 20年後には確実に50歳を超える。そこでは、40や50は相対的に見れば「若者」で、20や30は「まだ子供」であろう。還暦にしてはじめて「大人」の仲間入り=「一人前」という日も遠くない。
 
 「浅草」と聞いて自分が連想するのは、この「フケ専」という言葉なのである。
 1960年代生まれの自分にとって、浅草は常に「むかしのまち、レトロなまち、老人の多いまち、時代遅れのうらぶれたまち」であった。浅草寺(雷門)という観光名所、吉原という快楽名所はあるけれど、全体に若者が行って面白い場所、自慢できる場所ではなかった。とくに、現代では若い女性の関心こそが流行の着火点となる。そのためには「オシャレ」であることが肝心だが、浅草ほど「オシャレ」という言葉と縁遠い街はなかろう。
 しかし、かつて浅草は日本一の盛り場で、新しい文化の発信地で、娯楽の中心だったのである。その賑わいは、日本橋の近くにあった吉原が火事で焼けて(1657年「明暦の大火」)、今の場所(浅草寺の裏手)に移転した江戸時代初期から、太平洋戦争後にテレビがお茶の間に入ってくる昭和30年代までの、約300年間続いたのである。
 本書は、浅草生まれの元紙芝居屋である加太こうじが、直接見聞し肌身で感じた昭和初期から戦後間もない頃までの、浅草の盛衰を描いたものである。
 
 加太こうじは十代半ばから紙芝居の絵を描き始めて一家を養い、最盛期には「全国五万人、東京三千人の紙芝居屋を支配するボスだった」。加太らの描いた紙芝居を、工房の「親方が失業者の飴売り行商用として貸す。借りた失業者は紙芝居屋ということで、行商しながら町をまわって、毎日、一定の場所で、つづき物の紙芝居を子どもたちに見せた(本書より)」という流れである。
 なんとなく、現在ホームレスが販売している『ビッグイシュー』のシステムを思わせる。『ビッグイシュー』は現代の「紙芝居」か。
 
 街頭の紙芝居屋もやはりテレビの登場・普及と共に廃れていったというから、自分の幼少期(60年代)の記憶にないのは無理もない。『黄金バッド』と言えばテレビのほうである。
 しかるに、さくらももこの『ちびまるこちゃん』には主人公まるこが近所の公園に紙芝居を見に行くというエピソードがある。この漫画は作者の小学校時代の思い出が下敷きになっているから、さくらももこは実際に紙芝居屋に遭遇しているのだろう。さくらももこの生まれは1965年と自分とそう変わらない。さくらももこが小学4年生だった70年代半ばに静岡ではまだ紙芝居屋が仕事をしていたのだろうか。
 ともあれ、紙芝居屋の総元締めとして羽振りを利かせていた加太こうじは、絵描きとしての感性と観察眼、職人としてのプロ意識、江戸っ子の初物好き、お祭り好きの好奇心のすべてをもって浅草を味わいつくした。
 
 コマ回し、居合抜き、かっぽれ、都都逸、民謡、浪花節、落語、漫才、活動写真(映画)、弁士、小芝居(歌舞伎)、浅草オペラ、奇術、剣劇、アチャラカレビュー、カジノ、ストリップ、中華料理、洋食、カフェ、牛肉、電気ブラン、エノケン、ロッパ、ハヤブサ・ヒデト、松旭斎天勝、田谷力三、ターキー、浅香光代、永井荷風、川端康成・・・。
 様々な文化や娯楽を生み、時々のスターを輩出し、通人を集めてきた浅草の最盛期を、その一端を担った著者が生き生きと描き出している。すごい記憶力である。
 浅香光代と言えば、サッチーv.s.ミッチー論争で名を売った威勢のいいバアサンというイメージしかないが、彼女は浅草300年の栄光を背負った最後のスターなのだ。チャンバラする着物の裾から覗く彼女の太腿が目当てで舞台に通った客が大勢いたというのだから、「蓼食う虫も好き好き」、いや「昔の光いまいずこ」である。
 
 浅草はテレビが普及する昭和三十年代からこっち衰退の一途をたどった。
 その原因を加太はこう指摘する。
 

明治大正、昭和初期の浅草公園は新しいことにみちあふれていた。東京下町人のあたらしもの好きのあらわれが浅草公園のにぎわいだったから、新しくて大衆的だった。ところが、敗戦直後からの浅草のにぎわいは、千葉、埼玉方面からくる人たちがかたち作った。それは古き良き時代の浅草公園をなつかしむ人たちだった。焼けない前の浅草はよかったとか、東京の下町はなどという人たちの浅草公園になったのである。
 
 現代の東京では盛り場は学生によって維持されているといってよい。それゆえ、大学があると盛り場がある。女子学生が多いから喫茶店やレストランが繁盛する。男子学生は女子学生と付き合ってその店の客になる。そこから街は新しくなる。ところが、浅草には大学がない。各種学校もほとんどない。それは、地元に若者がいる場所がないことになる。

 つまり、懐古趣味(レトロ)に走ったこと、大学がないことで、若者が寄り付かなくなったことが主因と分析している。
 確かに、秋葉原の発展を見ると、オタクだろうが何だろうが若者を集める街は何らかの起爆剤で大バケする可能性がある。
 一方で、巣鴨とげぬき地蔵のケースもある。
 
 この本の刊行から30年。
 若者人口は減って「総フケ時代」突入である。
 これからどんな町が人を集め、どんな文化が生まれるのか。
 スカイツリーもできたことだし、いま浅草は「買い」なんじゃないだろうか。

 本書の白眉は、加太こうじによる「通人」の定義である。

 通人とは極言すれば野暮天のことである。世に<野暮は粋なり。粋はすべて生可通なり>という言葉があるが、粋、通に関する至言である。通だ、粋だと気取って見せれば、それは酢豆腐の若旦那のような半可通でること言をまたない。
 結局は、すべてをわきまえてひけらかさず、家は帰るところとして用が足りればいいとし、見かけは粗服でも下着は清潔で、食べたいものを食べたいようにして食べ、だまされると知ってもカネ使いをきれいにして、人のことには関知せず、しかも人をよく知り、あらゆる芸を鑑賞することができ、芸ごとの一つぐらいはやるが芸人に恥をかかせるほどうまくもならず、つまらぬ遊びごとに日をついやしている。
 そういう、一見、野暮天の如き者が、実は本当の通人なのである。

 加太はまぎれもない「通人」として、晩年浅草に遊んだ永井荷風を挙げている。