2009年刊行。
久しぶりに悲しい本を読んだ。
読後の何ともいいようのない、胸のふたがる思いは、その昔『ジョバンニの部屋』(ジェイムズ・ボールドウィン、白水社)を読んだときに通じる。
もっとも、単純な紀行文と思って読み始めたわけではない。
タイトルにある「路地」とは、夭折した小説家の中上健次が好んで使った言い回しで、ありていに言えば「(被差別)部落」のことを指す。著者の上原自身が大阪の更池という名の、食肉業をなりわいとする路地に生まれた人間である。つまりこの本は、部落出身である上原が、日本各地の部落を訪れ、そこに住まう人々の話を聞き、読者に紹介したもの、上原の言葉を借りれば「全国の路地をスケッチした物語」なのである。
当然、部落を語る上では切っても切れない要素である、職業(食肉、皮革、芸能e.t.c.)の話、差別の話、貧しさの話は予期のうちである。部落で生まれ育った人間がたどる、あるいは悲惨な、あるいは壮絶な、あるいは屈折した、あるいは隠花植物のようにひっそりと目立たない、あるいは闘争的な、あるいは楽天的な、いくたりかの人生の物語が供されることも予期のうちである。
しかし、自分の感じた悲しさは予想を超えていた。
著者は最初に自らのルーツ、生まれ育った大阪の更池をスケッチする。
食肉卸しの店を営む父親と堺の地主の娘だった母親。四人兄弟の末っ子として1973年に生まれた著者は、特段記憶に残るような差別を受けることもなく、食うに事欠くこともなく、腕白に育った。住民同士の結束の固い更池は少年時代の著者にとって居心地の良い場所であった。それは、路地(=部落)出身でない少年が過ごし体験する少年時代と、環境面ではいろいろ違いはあろうが、内面的にはさして変わりがない、屈託のないものとして描かれている。狭山事件の冤罪を訴えるデモ「ゼッケン登校」でさえ、少年の著者にとっては「お祭り騒ぎで楽しいもの」であった。
だから、著者が後年、北海道から沖縄まで全国の路地を探して渡り歩き、そこに暮らす人々を取材して差別された民の「生き様」を書くことをなりわいとするようになったのは、何らかのきっかけなり衝動があったはずである。
その謎を残したまま、旅は始まる。
弘前の太鼓職人、秋田の剥製職人、墨田の皮なめし工場、差別を怖れ生業を捨てた近江の路地、かつては「ヤクザ者の巣」と言われ現在は「猿回し」のメッカである山口県光市の路地、牛肉偽装事件で世間を騒がした岐阜県の路地、同和地区指定を受けなかったために貧しいまま取り残された佐渡の路地、解放運動から「足を洗って」ヤクザになった熊本の青年、内地から琉球に移り住んだ「京太郎」と呼ばれる門付け芸人・・・・。
読む者は上原の案内にしたがって各地の路地の中に入り込み、昔を知る古老の話に共に耳を傾け、今昔の路地の光景を眼前に思い描き、土地に染み付いている因縁を嗅ぎ取る。
著者が驚くべき嗅覚で各地の路地を探し当て、初対面の相手からも深い話を引き出してしまえるのは、上原自身が路地出身者であることも大きいが、インタビュアとしても優れた資質を持っているからであろう。
こうして一人で路地をまわる旅を続けていると、ふらりと一人の男が突然に訪ねてきて話を聞かれるだけでも、路地の人々にとっては、時に身を切られるように辛いことであろうと思ってしまうのだ。そう思うと、いたたまれない気持ちになる。路地をまわり始めて10年以上になるが、あまりに気持ちが重く、胃をいためて一年間どこの路地にも出られずにいたこともあった。
だったらこんな、傷口に塩をなすりつけてまわるような旅などしなければいいのにと、自分でも思わないこともないが、不器用な私はいつまでも、このような人の心のひだを覗き込むような旅しかできないでいた。
時折、読者に示される上原の独白、暗示的に差し挟まれる兄の存在。読者にもたらされるのは、各地の路地のスケッチというどちらかといえば客観的な情報と、そこを旅する上原の客観的でいられずに揺れ動く心の軌跡である。
悲しさの出自はどこにあるのか。
まず、差別される者、貧しさにあえぐ者を憐れむ心、共感する心がある。
次に、このような不条理を温存させてきた日本社会の未熟さや世間のむごさに対する苛立ちと絶望がある。
部落に生まれ育った宿命をコントロールできず、環境に羽交い絞めにされて、いじけ、ひねくれ、道を過ってしまう人がいることへの悲しみがある。
同和対策事業特別措置法(同対法)ができて、住環境や就職事情や教育水準は目覚しく向上したにもかかわらず、いまなお簡単には改善し得ないもの、解決できないものがあることのやりきれなさがある。
上原は記す。
私の世代にとっては、受けたことのない差別や、一生に何度もあるわけではない結婚差別を心配するよりも、路地というものを背負ったことによる間接的な影響の方が大きいように思う。たとえば、更池で子供会の世話をしていた竹本さんという人は以前、幼なじみのトシや私の家庭をかえりみてこう言ったことがある。
「上原のお父ちゃんもみんな貧乏やったから、学校もろくに行かんと肉仕事してたやろ。あれは重労働やんか。みんな結婚も早い。そこに法律ができて急に金回りがようなったもんやから、青春を取り戻すかのように遊びに出て家庭崩壊。子供はぐれて『やっぱり部落は怖い』と、こうなるわけや。更池にはこんな家が多いわな」
お金や法律や制度で外面はいくらでも変えることはできる。今では、ほとんどの部落が「路地」という言葉が似つかわしくないほど、道も家屋も整備され、きれいになっている。
一方、どうにもできないものもある。最たるものが幼少期の環境によってつくられた当人の根本的な気質・性格であろう。それを次世代は遺伝的にまた親子関係の中で知らないうちに受け継いでしまう。「カエルの子はカエル」と言われる所以だ。だから、「親のようにだけはなるまい」と頑張って生きて、いつのまにか疎んでいた親と同じように自らの子供に接している自分を発見するという「連鎖」が生じる。
表面上はもはや風化したかのように見える部落差別が、何か事あると噴き出してくるという現実もまた悲しい。
路地に詳しいある人が、こう語っていたのを思い出す。平成14年に女子高生誘拐殺人を起こした群馬県のある部落出身の男Yの物語が出てくる。
「この現代に被差別部落があるかといわれれば、もうないといえるだろう。それは土地ではなく、人の心の中に生きているからだ。しかし一旦、事件など非日常的なことが起こると、途端に被差別部落は復活する。被差別部落というものは、人びとの心の中にくすぶっている爆弾のようなものだ」
著者はYの生い立ちや来歴を調べ、生まれ育った路地を訪ね、昔の彼を知る者を探し出して会話し、近所に住む人たちの声を聞く。
路地を含めた付近住民たちの反応は、ただただ困惑、といったところだろうか。度重なる事件の発生により、路地への偏見の増長という負と負の板ばさみから、町の人たちは事件について固く沈黙を守るようになってしまった。しかし、規模も大きく歴史ある路地でこうまで重大な事件が立て続けに起こると、昔から住む人が多いこともあり、偏見はさらに増幅されることになるだろうことは容易に察しがつく。「やっぱり部落は怖い。部落の人間は自分たちとは違う」と安易に結論付けてしまう世間の悪意も悲しいけれど、さらに悲しいのは「部落出身であることと、犯罪を起こしたこととはまったく関係がない」と断言できないでいる著者の曖昧な態度である。
その理由は、実の兄を訪ねて上原が沖縄(八重山)に渡る終章に至って明らかになる。
兄とは幼い頃からとても仲が良かったが、父が女をつくって家を出てからは、四人いる兄弟ともそれぞれが疎遠になってしまっていた。家族の一人が崩れただけで、家族すべてがばらばらになってしまうことがあるのだが、それが今でも不思議な気がする。兄の墜落はそこから始まる。十八のときから少女へのいたずらを繰り返し、ついには逮捕され、三年間刑務所に入れられる。出所後もほうぼうから借金を繰り返し、何人かの女と同棲しては別れ、仕事も続かない。ついには借金を踏み倒して、沖縄に逃げてしまう。
兄のしたことについては、本人なりのきっかけがある。22で結婚したとき、路地の者やと嫁の母親になじられたことが発端だと、本人は言うのだ。初めから反対された結婚でうまくいかず、何年かして別れ、それから数ヵ月後にいたずらし始めたと言うのだ。
しかし、きっかけはそれだけでないだろうと私は思っている。いたずらについては18のときからで再三にわたって警察から注意を受けていたし、実家の食肉店の仕事がきつく休みがちで、いいようのない焦燥感になぶられていたようだ。金遣いが夫婦とも荒かったと聞いている。
だから別れた理由についても、ただ兄が路地の生まれだというだけではないと、血縁の者は話していた。路地に生まれたことは、兄にとって墜落への免罪符のようなもので、そう言いさえすれば更池では時と場合によっては、同情を得ることもできるからである。
そんな兄との久しぶりの再会は、しかし(案の定というべきか)、そっけないものであった。二人は近所の焼肉屋に行き、兄の新しい女をはさんで盛り上がらない会話を交わす。
それにしても、兄と再会してからは、何を見ても悲しくなってしまうような気がして仕方なかった。初恋の人と再会してもがっかりするだけだとよくいわれるが、兄との再開後は、何か喪失感にも似た感情に苛まれるようになっていた。ここに至って、この路地を巡る旅行記は私小説に変貌する。
路地で育った者が罪をおかし、借金の返済に困って南の島まで逃げ、そして暑い潮風になぶられながら他所の女と生きていく。それはそれで良いのだろうが、しかし――。
もう少し、そうなる前に何とかならなかったのだろうか。兄と共有した時間のことばかりが思い出され、もう少し普通に会えないのかと、悔しささえ覚えた。二人して路地へと向う電車を待った駅のプラットホームや線路の情景が、思い出されては霞のように消えていった。
私は思った。間違いなく兄は、どこかで曲がり角を違えただけの私なのだ、と。だから兄にはどうしても、西南の果てへなど逃げて欲しくなかったのだ。
いや、正確に言うならば、この本は紀行の形を借りた私小説なのである。
路地を知らぬ読者のためにスケッチを描くという口上のもと、各地の路地を訪ね、来歴を調べ、そこに住まう人々と交流を重ねながら、著者がやってきたのは実は別のことだったのだ。
今まで自分は路地と路地をつなぐ糸をつむぐつもりで旅していたけれども、そうではなく、これは私の中で途切れた路地との糸をつむぐ、自分のための旅であったようだ。失われた路地と路地との糸をつむぐなどということは、ただ自分の小さな思い上がりであって、実際、私は千年昔からあった路を通って、路地から路地へと旅をしていただけに過ぎない。
幼い頃に更池を出て以来、私と路地との関係は途切れたままであったが、その後も機会あるごとに、私は路地との接点を求め続けてきた。引っ越してからも兄と一緒に路地に通い、15歳になると集会などに参加しては路地の人と語り、大阪のいろいろな路地に出かけた。そこに、まだ幸せだった頃の家族の幻影を見ていたのかもしれないし、自分自身のアイデンティティなどという脆く儚い何かを求めていたのかもしれない。
各地の路地を訪ね歩くことで、少しずつ自分の心の中で傷つき途切れた糸をつむいでいたのだろう。路地の歴史は私の歴史であり、路地の悲しみは私の悲しみである。私にとって路地とは、故郷というにはあまりに複雑で切ない、悲しみの象徴であった。
幼少時に自分が愛し、楽しい思い出を与えてくれたその場所が、後年、そこに生まれ育った者に不幸と生き難さをもたらす揺籃でもあったと気づく。
それはあまりに切ない経験である。
だが、それは一人著者だけに「差別的に」訪れた切なさではないように思う。
人が「無邪気で屈託がない」ということは、時として残酷なものである。お祭り気分で「ゼッケン登校」していた著者の隣で、読書と絵が好きだったという(おそらくは感受性の豊かな)この兄は、何を感じ、何を思っていたのだろう。路地でない周囲の目をどのように意識していたのだろう。無邪気にはしゃぐ弟の姿をどう見ていたのだろう。
子供の頃の無邪気さは、後年になって当人に仕返しするものである。その痛みを人は「成長」と呼ぶ。
だからこの悲しみには普遍性があって、読む者の心をえぐるのであろう。