第一級のスリリングな面白さに満ちた本である。
最先端の科学(物理学、数学、進化論)の様相が、科学素人(99%文系)の自分にもわかりやすく説明されている。工学部と文学部(哲学科)を卒業し、現在仏教系の大学の教師である著者だからこそ為しえた離れ業という気がする。まったくこういう書き手がいてくれないと現代科学の動向など伺うべくもない。
謝謝。
面白さの第一は、最先端の科学が、実に不可思議な、合理性を拒否するような、ある意味「非科学的」な地点に達していることを知るからである。
ある面から見ればそれは「頭打ち」であり「袋小路」である。だが別の見方をすれば、新しいパラダイムに跳躍する飛び込み台のまさに突端にいる、と言うこともできよう。
そして、面白さに拍車をかけるのは、その新しいパラダイムがどうやら仏教的世界観に近似しているという点である。自分は仏教徒なのでワクワクしてしまうのである。
最先端の科学と仏教の近似。
そこに着眼し、両岸に橋をかけようとする野心的で質の高い試みとして、この本は山口修源著『仏陀出現のメカニズム 拡大せし認識領界』(国書刊行会)と双璧と言える。
私は本書で、科学と仏教の関係を論じるが、両者の個々の要素の対応に関しては一切無視した。唯識と脳科学だの、マンダラと量子宇宙だの、つき合わせても意味がない。視点は常に、科学と仏教それぞれが目標とする世界観である。スケールはそこに合わせてある。科学は総体として、どのような方向に向かっているのか。仏教は本来、何を目指して活動していたのか。その向かう先を見定めることによって、科学と仏教の知られざる関係性を明らかにしたい。(標題書より引用、以下同)
という壮大なる目的のもと、著者はまず科学の方向性について語り始める。
科学が、右肩上がりの比例グラフのように漸次的ではなく、停滞→ジャンプ→停滞→ジャンプという段階的な過程を経て発展していく様をパラダイムシフトと呼ぶ。
パラダイムシフトとは、頭の中の直覚と、現実から得られる情報とのせめぎ合いにおいて、直覚が負けて情報が勝つ、そういった現象だと考えることができる。「世界はこうあるべし」という脳の生み出す理想世界が、現実を観察することによって得られる外部情報のせいで修正を迫られ、「いやだけど仕方ない」と言いながら軍門に下るのである。
脳の直覚が生み出す完全なる神の世界が、現実観察によって次第に修正されていく、悪く言えば墜落していく、そこに科学の向かう先が読み取れると想定するのである。
このことを著者は科学の人間化と命名している。
以下、科学の人間化がこれまでどのように起こってきたかを、物理学、進化論、数学、精神分析学を一つ一つ俎上にのせて調理していく。
その包丁さばきの鮮やかなること!
ダーウィン(進化論)とキリスト教(創世記)の攻防も、カントールとクロネッカーの「超限数」をめぐる師弟対決のエピソードも寝食を忘れてしまうほどの面白さにあふれているが、やっぱり圧巻は量子論である。
量子論は、観測という行為における、観測対象と観測者の関係を根本的に変えてしまった。両者は線を引いて区分けすることなどできない。観測というひとつの行為には、観測の対象と、観測者の両者が不可分のワンセットで含みこまれているのである。電子は重ね合わせの波の状態で存在していると言ったが、量子論の立場から言うと、観測対象と観測者を区分けすることはできず、全体がセットになって世界を作っているのだから、正確には、「電子および、そのまわりの世界は、可能性の重ね合わせの波として存在している」と言わねばならない。
では、電子のまわりの世界とは何を指すのか。
文字通り、電子のまわりの世界である。実験装置も、その装置の傍に立っている私も、私が住んでいる日本全域もすべてが電子のまわりの世界である。結局「全宇宙」が電子のまわりの世界になる。電子1個が重ね合わせの波として存在している。それはとりもなおさず、この宇宙の存在すべてが重ね合わせの波として存在しているということである。その中には、観測者である私自身も含まれねばならない。
エベレットが提出したこうした解釈を「多世界解釈」と呼ぶのだそうである。
なんともシュール!
観測者(見る者)と観測対象(見られる物)との関係とは、畢竟するに認識(=心)と存在(=物)との関係である。古来から瞑想者の悟ることの一つは、「見るものは見られるものである(認識=存在)」ということである。観察という行為が、すべからく観察する主体を前提にしている以上、主体の性質そのものがバイアスとならざるをえない。純粋に客観的な、独立して成立している存在や現象など、この世にはありえないということだ。
この事情をいちはやく見抜き指摘した科学者がポアンカレ(1854-1912)であった。
ポアンカレは大量の科学論を残しているが、その基盤は、「科学は人間が生み出したものだ。人間なしには科学的真理というものはあり得ない」という思想である。これは人間が科学を勝手に作り出したという意味ではない。外界は確かに存在しており、科学は、その外界の状況を正しく記述しようとする活動であるから、あくまで外界の状況をもとにして作られている。なにもないところから、人間が自分たちの都合に合わせて気ままに作り出したというものではない。科学の説明が外界の状況と正しく対応すること、それが科学にとっての必須の要件である。
しかし、外界はあくまで人間に科学を作らせる第一要因にすぎないのであって、外界からの刺激を認識し、思考し、総合して体系化するという作業を行うのは人間側である。したがって科学の中には、人間特有の認識方法、特有の思考方法、特有の総合方法が必ず含まれてくる。だから我々が科学的真理として受け取っている事柄も、実際には人間にのみ当てはまる、人間にとっての真理だということになる。
ポアンカレ、偉大だ。天才だ。その名と違ってポアンとしてなどいない。
しかし、著者も負けていない。
こうして人間は、外界からの情報を、人間固有の特殊な形で受け取り、それによって独自の世界像を構築していく。しかしそれが人間にのみ通用する世界像だという意識を持つことはない。世界は実際にそのような様相で存在しているのだ、自分たちの感じている世界像は絶対的なものだ、と確信しながら生活しているのである。
このことを仏教では「無明」と呼ぶのだろう。
さて、これからの科学はどこに向うのか。
新たなパラダイムはどこらあたりから生まれてくるのか。
観察という行為において、観察主体が常にバイアスとなってしまうのだから、次なる展開は観察主体のありようを徹底的に調べることだ。
つまり、人間の認識システムの特徴を研究することが鍵となる。
そこで、フロイトの精神分析学を土壌にもつ脳科学の出番である。昨今の脳科学の隆盛はこうした背景を知ると納得がいく。
おそらくこれからの科学は、脳科学によって得られる脳の働きに関する知見(料理人の仕事)と、従来の科学理論(出された料理)をつき合わせることで、実際に見ることのできない外部世界の実像(生の食材)を推測するという作業が主になっていくであろう。
生の食材!!!
これを一瞥することが「悟り」なのではないだろうか。
著者はここまで延々と、第1章から第3章まで、総ページ数の4分の3を使って科学について書き連ねてきた。
いよいよ(やっと)仏教の出番である。
ページを括るのももどかしく第4章に突入したら、あららら・・・。
なんだか肩すかしであった。
期待していたのは、仏教とはそもそもどんなもので、仏教の世界観(ブッダの言ったこと)とこれまで著者が懇切丁寧に説明してきた現代科学の知見とが、具体的にどのように似通っているのか、どのように連関しているのか、という照合作業であった。であってこそ、仏教と科学を比較することの意義があるはずだ。
著者はいきなり結論を持ってくる。
科学は物質世界の真の姿を追い求めて論理思考を繰り返すうちに神の視点を否応なく放棄させられ、気がついたら、神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる物質的世界観を作らねばならなくなっていた。一方の仏教は、同じく神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる精神的世界観を確立するために生まれてきた宗教である。
仏教と科学の違いは、仏教とキリスト教の違いよりも小さい。科学の人間化を一本のベクトルとした場合、出発点にはキリスト教をはじめとした一神教世界があり、反対側の到着点に仏教がある。もちろん科学が最終的に仏教になるなどと言うのではない。両者はそもそも求める目的が違う。しかし、その目的を求めて我々が活動する、その活動の場が、仏教と科学では同次元なのである。
続いて著者は、仏教の起源と歴史から語り起こし、経典研究をもとに、以下の点を論証する。
最初期の仏教(釈尊の仏教)だけが持つ三つの特性
1 超越者(神)の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する。
2 努力の領域を、肉体でなく精神に限定する。
3 修行のシステムとして、出家者による集団生活体制をとり、一般社会の余りをもらうことによって生計を立てる。
すなわち、仏教と科学との近似を論じるのであれば、それは中国を通じて日本に伝わった大乗仏教ではなく、釈尊の言葉(教え)を忠実に伝えた原始仏教でなければならない。経典の勉強と瞑想修行という自己努力によって悟りに達することを根本とする原始仏教こそ、実証的な科学との比較に耐えられる。(といっても著者は大乗仏教の意義を否定してはいない。)
そこで、仏教と科学の関連性について結論を下すなら、仏教と科学は同次元の世界観に立つ人間活動であり、両者を同時に受け入れてもなんら矛盾することがない、ということになる。特に科学の人間化が進んできて、科学の基礎が次第に仏教世界の世界観へと近づいている現代において、仏教と科学の親近性はますます強まっている。
「世界は法則性に沿って展開しているが、その法則性とはあくまでも我々人間が人間独自の視点で構成していくものである。科学は、外部の物質世界を法則性によって理解しようとし、仏教は人間精神を法則性によって理解しようとする。さらに仏教の場合は、その理解した法則性を利用して、自己の向上を目指す。科学も仏教も、人間という存在を視点の中心に据え、現象を法則性によってとらえようとする点では変わることがない」こう考えた人が、仏教と科学を同時に受け入れたとして、どこに矛盾があるのか。
矛盾はない。
しかし、「超越者(神)の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明すること」(=人間化)という共通項のみを持って科学と仏教とを結びつけるのはいささか大雑把に思える。それなら、経済学と仏教を結び付けてもいいし、将棋やチェスと仏教を結び付けてもいい。
現代科学と仏教の近似を説くのであれば、やはり「科学の基礎が次第に仏教世界の世界観へと近づいている」ことを具体的に示すべきだろう。
つまり、先に触れたような、量子論が明らかにした「認識(観察者)」と「存在(観察対象)」の関係をめぐる不可思議や、宇宙のすべてが重ね合わせの波として存在しており主体(自己)さえもそこに含まれるという驚くべき世界解釈が、仏教の世界観の何に相応するかの示唆があってもよかろう。
「両者の個々の要素の対応については一切無視した」と著者ははじめに述べている。それならそれでよい。照合作業(つきあわせ)は読者にまかせればよい。ただ、少なくとも科学領域について著者が提供したのと同じくらいの検討材料を、仏教についても提供してほしかったと思うのである。
自分が「肩透かし」と感じた理由は、仏教の世界観を語る上で絶対に欠かせない「無常」「無我」「因縁」の説明が抜けているからである。仏教素人の読者にしてみたら、そこが説明されたあとで第1~3章を再読することではじめて、「今の科学の最先端はこんなにも仏教と近接しているのか!」、そして「ブッダは2000年以上も前にこんなもの凄い知恵に到達していたのか!」と驚嘆と共に合点がゆくと思うのである。
とはいえ、ここまで書いてきて、やはりこの本はこのように「尻切れトンボ」に終わるほか仕方がない、著者の姿勢は正しかったと思う。
「無常」「無我」「因縁」をわかりやすく説明するなど、悟った人間であっても困難を極めるだろう。まだ、フラクタル幾何学や相対性理論を説明するほうが簡単かもしれない。
そしてたとえ「無常」を見事に説明し得たところで、それを読んだ人間が頭で理解する限り、それは真に理解したことにはならない。
「不立文字」は大乗仏教(禅)の謂いだけれど、ここから先は個々人が修行(=瞑想)によって身をもって知る世界。
著者の言うとおり、仏教を宗教たらしめている1%の神秘がここにある。