老人介護の常識の誤り 2006年刊行。

 介護職2年目の自分にとって、介護界の革命児からカリスマとなった三好春樹は、輝かしい高みにいる、目指すべき、教えを乞うべき存在なのである。氏の本領である理学療法士としての立場から繰りだされる「高齢者にとっても介護する人にとっても無理のない、自立を促進する介護技術のノウハウ」も「目からウロコの認知症ケア指南」もすぐに仕事に活かせてありがたいのであるが、そうした技術的なことだけでなく、老いや病いや障害やボケをどうとらえるか、どう向き合うか、介護とは何か、医療・看護とは何か、人が生きるのに大切なことは何か・・・・といったより本質的なところまで考えている、考えさせてくれる点でも、他の並み居る介護カリスマ達の追随を許さないものがある。
 本書の裏表紙に詩人の谷川俊太郎の推薦文が載っている。三好とその仕事を紹介するのに、この文章に如くはなかろう。 

 この本は実用書であると同時に思想の書である。三好さんは呆け老人のシッコ、ウンコの視点から人間を考える哲学者だ、現実が見えていない常識や制度に鋭く異議申し立てをする革命家だ、いつも現場で工夫し行動し発言するトリックスターだ、そしてなによりも老人と介護者の真の味方だ。

 三好の本はこれで4冊目だが、いつも思うのは「前向きな人だなあ~」である。
 といって、この「前向き」は、近代的意味でのポジティヴ(positive)とはちょっと違う。いわゆる「前進、成長、向上、進歩、改善、発達」といった言葉で表されるような未来志向の理想主義ではない。病いや障害を治して「健康に、正常に」近づけることを美徳とも使命ともするような「前向き」ではない。言ってみれば、オリンピック主義ではない。
 本書の中で、三好自身、介護分野における「近代」に対する懐疑を再三述べている。 

 残念ながらというか、当然というか、老いと障害には近代医療は無力なのである。むしろ、老いという自然過程や、障害という自然の一部への無駄な抵抗が事態を悪化させてきたようにさえ思える。  
 私たちのマヒの完全治癒への願いの強さは、近代医療への幻想に加えて、生活をマニュアルに頼らず一つ一つ手作りしていかねばならないという課題に直面したくない、という思いもあるのではなかろうか。(※あとに続く)


 私には一抹の疑念がある。というのも、近代科学とは、どうしても人間を非生活的で非関係的にしか見られない限界を持っているのではないかという疑念である。近代とは人間を自発的で個別的な関係的生活から遠ざけ、受身的で画一的にしてしまうという本質をそもそも持っているのでは、という疑念である。とするなら、介護は近代科学という枠を越えていかねばならぬことになるのだけれど。


 日本人は個人として成熟していない、などと批判されるのだが、私はそれは文化の違いにすぎないと思っている。世界の一部でしかない欧米の文化では、自立した個人であることが人間の条件みたいだが、日本を含む世界の大半の地域では、関係の中での相互依存が人間の在りようなのである。


 戦後、自立した個人であることが大切だと教育されてきた世代ほど、自分の“おもらし”とはつき合えないのではないだろうか。老いとは、自立から遠ざかっていく過程だし、個人主義という名の排他主義は介助を受け入れようとはしないだろうから。

 といった発言から明らかなように、介護は――少なくとも三好が考える介護は――近代とはなじまない。
 老いをストップさせて人を若返らせることも、老化に伴う障害や生活習慣病を医療やリハビリによって完治させ元の状態に戻すことも、人を不死にすることもできない話なのだから、先に掲げたようなオリンピック主義は、「焼け石に水、無駄なあがき」とまでは言わないまでも、理想と現実の相克の中で人を疲弊させるばかりである。もっと悪いことに、より良き未来を執拗に追い求める視線が、「いま、ここ」の現実の中にある豊かさを見逃していく不毛につながりかねない。

(先の引用※の続き)
 治るかもしれない、という夢を持つことを批判しようとは思わない。奇跡を待ち望む気持ちもあっていい。しかし、夢や希望はもっと現実的な世界にもあってほしいと私は思うのだ。
 それは夢と呼ぶには具体的な夢であり、奇跡と呼ぶには小さな奇跡にすぎないが、確実に実現できる夢と奇跡なのである。マヒした手足を持ってはいるが、こんなこともできた、という喜びを感じられることや、マヒは治っていないけれどもそんなことは問題じゃないと思えるような時間が得られること、それは可能なのだ。
 その夢と小さな奇跡を作り出すことこそ介護である。

 上手く老いるのに必要なのは、「ありのままの現実を認め受け入れること、その中で自分にできることを人の助けを遠慮せずに頂戴しながら行い、生活の中に喜びを見出すこと」ということになろうか。
 ならば、介護する側にまずもって必要なのは、介護される側がたとえ上手く老いや病いや障害と向き合うことができなくて、怒りや葛藤や後悔や悲しみや抑鬱に囚われていたとしても、「その人をありのままに受け入れる」ことであろう。下手な励ましや慰めや説法は百害あって一利なしである。
 その上で、こうなる。

 介護とは一人一人の個別の状態を把握し、個別のニーズを把んで、マニュアルなんかに頼らない個別のアプローチを創り出していくものなのである。
 私が介護に必要なのは二つのソーゾ-リョク、つまり想像力と創造力だ、と言い続けてきたことの理由はここにある。

 こう見てくると、別記事で取り上げた「浦河べてるの家」や「山谷きぼうの家」の文化に通じるところがある。その精神をアメリカの神学者ラインホルド・ニーバー(1892-1971)の詩に見ることができる。

Father,
Give us courage to change what must be altered,
Serenity to accept what cannot be helped,
And the insight to know the one from the other.


ソルティ訳
神様、
私に変えなければならないものを変える勇気を
どうにもしようもないものを受け入れる静謐さを
そして両者を見分けることのできる智慧を与えて下さい


 三好もまた「変えることのできないものを受け入れろ」とだけ説いているわけではない。「変えなければならないもの、変えられるもの」を果敢に変えようと闘ってきた人である。
 そして、その両者を見分ける分別を持った人でもある。
 老人問題をこう分析している。 

 高齢社会が問題であるとしたら、老人が増えるにつれて、寝たきりと呆けが増えることであろう。このことがまず、本人と家族にとって大問題なのである。社会の側もようやく、一般的に老人が増えるからというのではなくて、この問題の重要性に気が付き始めた。
 寝たきりにならないためにはどうしたらいいか、寝たきりになったときにどうすればいいのか。呆けないためにはどうしたらいいのか。呆けたときどうすればいいのか。この二つの問題さえ解決すれば、「老人問題」なんて言葉から深刻さがかなり消えるはずである。

 慧眼である。
 で、三好は呆けと寝たきりの現状を観察し、その原因を追求する。

 寝たきりと呆けはセットなのである。もしあなたが寝たきりになったとしよう。すると、どんなインテリであったとしても、三年後には呆けてしまっている可能性が高い。

 逆に、もしあなたが呆けたとしよう。すると、どんなに身体が頑健な人でも、三年後には寝たきりになっている可能性が高い。


 呆け老人が寝たきりとセットになってしまう原因は、家の中に閉じ込められること、さらに部屋の中に閉じこめられること、そしてベッドに縛りつけられることにあるということが判る。難しくいえば、生活空間の狭小化、ということになる。


 寝たきりの原因は主体の崩壊にある。手足のマヒはそのきっかけではあるが原因ではない。だって、重いマヒでも寝たきりではない人がいくらでもいるのだから。主体が崩壊して自発的に動かなくなり、その結果、動けない身体になったのだ。順番はそうだ。
 
 なぜ主体が崩壊するのか。・・・・呆けた老人の置かれた生活が、“生活”と呼ぶものに値しないものだったからである。じつは、呆けがあろうがなかろうが、身体に障害があろうがなかろうが、寝たきりの原因が生活にあるのである。


 呆けもまた同じである。物忘れやおもらしをきっかけにしてプライドを失い、閉じこもったり、閉じ込められたりしたことでコミュニケーションの喪失状態が長く続いた結果、脳が萎縮したのである。

 すなわち、寝たきりも呆けも原因は一緒で「生活空間の狭小化」と「人間関係の狭小化」にあるというのである。
 であるなら、正しい対処法は明らかだ。
 介護を必要とする老人の「生活づくり」と「関係づくり」。

 この解答を見出した三好は、寝たきりや呆けやその予備軍の老人たちの生活づくり、関係づくりに精を出し、目覚しい効果を上げていく。その様子が具体的なエピソードと共に本書で紹介されている。効果が上がっているのだから、三好の原因分析は正しかったというべきであろう。
 まさに、「変えなければならないもの、変えられるもの」を変えたのである。


 さて、ここからが本題。
 自分が三好を「前向き」と感嘆するのは、ここから先である。
 生活づくりと関係づくりがうまくいけば、老人たちは――あるいは「人間は」と言ってもよいだろう――幸福に、穏やかに過ごせると信じられる点が、「前向きだなあ~」と感心するのである。
 実際、その二つが揃えば落ち着いて笑顔で暮らせる老人は多いのだろう。とりわけ、「生活」と「関係」の生まれつきの天才である女性たちはそうだろう。老いる以前の若き日々に「生活」と「関係」の充実した日常によって満足していた人々は、そうだろう。
 だが、男性たちはそれで事足りるのか。
 戦後生まれで近代個人主義にかぶれた世代はそれで満足するのか。
 インテリ層はどうだろう。
 自分は・・・・・・不幸にもおそらく満たされない。


 三好はじめ多くの介護のカリスマの本を読んでいると、「生活づくり」と「関係づくり」によって、虚ろな目をして問題行動を繰り返していた老人たちが、笑顔や会話を取り戻してイキイキと自己表現し始める、親身な世話をしてきた介護士に見送られて安らかな最期を迎える、という感動的なエピソードにあふれている。
 それは事実に間違いないだろうし、素晴らしいことだと思う。
 だが、そうやって「蘇った」一握りの老人の背後に、どれだけ多くの老人たちが、介護士の懸命な努力、誠実で優しい対応、創意工夫の数々にも関わらず、寝たきりのまま、呆けのまま、空虚なままに逝ってしまったかを想像する。


 「生活」と「関係」があっても解決されずに残されるものはある。
 それは一言で言えば「意味」である。


 なんのためにこうして老いさらばえ、病いに苦しめられ、なおかつ生きているのか。
 仕事もない、養うべき家族もいない、世俗の大概のことは飽いてしまった、他人の為・社会の為にできることもない。
 なんのために生きているのか。

 この問いには解答がない。
 あるいは、一人一人が自分で見つけるよりほかない。 
 これは「老人問題」をとうに超えたテーマなのであるが・・・。