リア家の人々 2010年刊行。

 実に20年ぶりくらいに読む橋本治。
 20代の終わりに一時はまって、刊行されているものを手当たり次第読み漁った。
 『桃尻娘』も『蓮と刀』もいくつかの評論も本当に面白かった。よく分からない「社会」というものに圧し潰され洞穴のサンショウウオの如く鬱屈していた自分を、橋本治はアメノウズメの傍若無人の舞で暗がりから誘い出して、「社会」の正体、社会を作っている「男」の正体を教えてくれた。これまでとは違った「社会」の見方、時代の読み方を示して蒙を拓いてくれた。それは自分にとって一種の悟りのような、解放感あふれる経験であった。
 『窯変・源氏物語』以降は追わなくなった。
 なぜだろう?
 一つには、上記のような意識のパラダイムシフトを経た結果、橋本の作品自体を必要としなくなったからである。あとは自分の目で見て、自分の頭で考え続ければよい。
 もう一つは、橋本の文体がまどろっこしさを増していき、『蓮と刀』ではあんなに明晰だった論理も次第にたどりにくいものとなり、文章がどんどん歯切れが悪く読みづらくなったためである。
 これにはそれなりの理由が存在するのだと思うが、今はそれを語る場ではない。

 20年ぶりに橋本を読もうと思ったのは、たぶん三島由紀夫原作の映画『愛の渇き』を観たためである。三島文学の中心テーマである「関係の不可能性」をつらつらと考え「他者」というキーワードが浮上し、そんなときたまたま入った古本屋で『リア家の人々』を見つけ購入した。もちろん、「他者」は橋本文学の根幹を成すキーワードだからである。
 こんなふうにして、人は作品から作品へと渡り歩いて自らの因縁を辿っていくのであろうか。


 閑話休題。
 久しぶりに読む橋本治は、やっぱりとっても面白かった。小説の快楽を存分に堪能した。
 文章も水の流れのように淡々と気負いのない、読みやすいものになった。登場人物たちの書き分け=性格描写が実にうまい。男も女もこれだけ細やかに描ける作家はそういまい。 
 昭和という時代を、時代を彩る大小さまざまの事件や風俗を通して描き出しながら、その時代に生きる平凡な一家庭の瓦解を重ねていく。「公(社会)」と「私(家庭)」の按配が実に巧みである。
 「公」と「私」は別々に存するのではない。「私」は、「公」の影響を受けながら家族一人一人の心のうちに変化をもたらしていく。「私」で起こっていることは、「公」において事件として誇張的に外在化し、さらにより広範囲の「私」を時代の流れの中へ巻き込んで変容へと導いていく。それはあたかも意識と無意識の関係のようである。

 ある作家の小説を面白く感じるのは、つまるところ、その作家の視点が自分と似通っているからである。作家のものの見方や考え方に共感し、普段自分の感じていること・考えていることを登場人物の言動やその解釈を通してうまく表現してくれるから、読者は「面白い」と感じる。「ここに自分と同じように世界を見ている人間がいる」とエンパワされる。自分がまったく理解できない、共感できないテーマや主張や視点をもった小説など、面白くあろうはずがない。そもそも本屋でそれを手に取ろうと思わないのが一般であろう。本棚を見ればその「人」が分かるというのは、ある程度当たっている。
 その意味では、小説を読むことそのものは作者との出会い(=「自分」との出会い)ではあっても、「他者」との出会いとは言えないのかもしれない。
 自分もまた本好きではあるが、文芸評論家ではないから、自分が楽しめそうもない分野の本ははなから敬遠している。たとえば、企業小説とかバイオレンス小説とか渡辺淳一先生とか・・・。
 しかし、まったく「他者」との出会いがないかといえば、それも違う。
 読む者は、作者が描く登場人物を通じて「他者」と出会える。
 たとえば、自分にとって、この『リア家の人々』における一番の「他者」は主人公たる栃波文三、戦前生まれの元官僚で一家のあるじにして三人の娘をもつ寡黙な父親である。「他者」とは、「私が理解できかねる観念によって規定され生を営んでいる他の人間である」と定義するならば、この文三は自分(ソルティ)にとって他者である。
 その文三の内実を、橋本はじっくりと丁寧に解きほぐし、読む者の前に絵巻物を広げるようにさらけ出す。それによって、読む者は文三という「他者」と出会う=理解するのである。
 橋本の小説が面白いのは、作品中にこのように「他者」をしっかりと存在させ、意識し、理解しようとする姿勢が貫かれているからである。それを可能とする他者性感覚と世界認識と洞察力と描写力と愛を、橋本が持っているからである。

 この小説の本当の主人公は「昭和」であると評する者がいる。
 たしかにそれは間違いではない。
 だが、それだけでは何も説明したことにはならない。
 「では、昭和とはどんな時代なのか」という問いに答えていない。
 橋本文学の中心テーマは『桃尻娘』や『蓮と刀』の頃から基本的には変わっていないように自分には思われる。
 「父権」の失墜、「男」の空洞化、「秩序」の崩落。そして「他者」の浮上。
 それこそ『源氏物語』の昔から日本社会をすっぽり覆って、「女・子供」を生き難くさせてきた「そうしたもの」の正体が透け始め、失墜し、崩落し、空洞化へと向ってゆく時代――それが昭和だったのではないだろうか。
 橋本が、主人公の文三の設定を官僚としたのは、まさに「官僚」という体質にこそ、「父権・男・秩序・他者の不在」が集約されていると考えたからではないだろうか。
 「そうしたもの」の正体に気づいた新しい世代は、既存の体制にもはや「寄らば大樹の陰」的安心を得ることができなくなった。
 そこで「自分探し」の旅に出る。
 文三の三女である静が、結婚を一人決めする強引な石原(この姓も暗示的だ)を蹴って、かといって実家で文三の世話に明け暮れする生活も良しとせず、家から出て就職口を探す姿は、父の手から夫の手へと身を任す『リア王』の三女コーディリアとも、男達の庇護を拒んで世を捨てる『源氏物語』の浮舟とも違う。
 「女子供」の人間宣言――それが「昭和」という時代の今一つの意味であろう。


 以下は、思わず息を止めた含蓄あるアフォリズム(警句または叡知)の数々。


● 官僚、秩序について(=男について)

 学生時代の彼は、もう典型的な官僚だった。自分がどう思うかではなく、「どう思えばよいのか」を第一に考えていた。

 なにも考えず出省して、なにも考えずに一日を終える。それは官僚にとって理想的な一日のあり方だった。

 どのように扱ってよいのかが分からないことを押し付けて来るのは、分限を超えた悪なのだ。父親の文三は、秩序というものを、そのように考えていた。

 出来上がってしまった秩序の中に、思想の対立などという煩わしいものはない。あるのは、利権の奪い合いという分かりやすいものだけである。

 それは政治でもない、思想でもない。政治や思想の言葉を使ってバラバラに訴えられたものは、その社会の秩序を形成する人間達の「体質」である。だからこそ、東京大学の教授達は、学生達から罵られ、嗤われ、困惑し怒っても、なにが問われているのかが分からなかった。秩序を形成する者の「体質」、形成された秩序の「体質」が問われるようなことは、かつて一度もなかった。なにが問われているのかが分かったとしても、事の性質上、それはたやすく改められることがなかった。(60年代末の全共闘について)

●女について 

 女達は強い。やることがある。自分達のなすべきことにすべてを集中して、自身のあり方を揺るがすような無意味な不安を斥ける。


● 人について

 年寄りにとって、「年寄りであること」は、既にそれ自体で娯楽なのだ。だから、年寄りを敬う人間達は、嬉々としてその年齢を数え上げる。

 ずるい考え方は人を楽にさせる。ずるい考え方が見つかるまで、人は無意味な苦しみ方をする。

 「なんのために?」ではない。ただ人は、「失われたものの回復」を求めるのだ。

 人は「空気」に反応して、身を強張らせたり細らせたりする。自分の頭で考えるように思えて、まず、自分を取り囲む「空気」に反応する。

 人は、納得して了解するのではない。了承せざるをえない状況の中で、その状況に押されて、ただ了承するのである。