ダライラマ科学への旅 2007年発行(原著は2005年刊行)

 ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォの科学に対する関心の高さと造詣の深さはよく知られている。本書を読むと、ラマの科学への関心の背景は次の4つにまとめられる。
(1) 生来の科学好き(理系少年)
(2) チベットの指導者として近代化の必要性を痛感
(3) 科学と仏教の近似
(4) 科学の行き過ぎに対する懸念
 順に見ていこう。


(1) 生来の科学好き(理系少年)
 ブラッド・ピッド主演『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(ジャン=ジャック・アノー監督、1997年)はダライ・ラマ14世の少年~青年時代を描いた映画であったが、その中で少年ラマが機械いじりに熱中するシーンがあったと記憶する。
 本書でもラマ自身が、何人もの教師による厳格な仏教教育の合間に、宮殿にあった望遠鏡で外の市民の暮らしぶりを覗いたり、懐中時計を解体し組み立てなおしたり、映写機を修理したり、車の運転を習ったりという少年時代を述懐している。科学への関心は技術への興味から始まったのである。
 長じてからも、世界のあちこちへの政治的な訪問と兼ね合わせて、最先端の科学技術の粋を集めた産業施設を訪れ、ワイツゼッカーやデヴィッド・ボームなど当代一流の科学者と対談を重ねてきた。
 元来、理系思考の持ち主なのだろう。(数学は苦手と告白しているが) 

 私は中国やインドへの公式訪問の前から、あることに気づいていました。それは、技術というものは実のところ、世界に関するある特定の理解の仕方から生まれるもの、またはその理解を表現したものだということです。そして科学とは、そうした表現の土台を成すものです。科学はひとつの具体的な探究の方法であって、科学から導かれる一連の知識から、世界に関する特定の理解が生まれます。ですから、私は初めこそ技術的な人工物そのものに魅了されましたが、今では特定の産業や機械的なおもちゃではなく、科学的な探究の方法論に最も強く惹きつけられているのです。

(2) チベットの指導者として近代化の必要性を痛感
 チベットは中国に侵略され、多くのチベット人が虐殺された。すでに政治・宗教の指導者の地位にあった青年ラマは、1959年インドに亡命せざるをえなかった。 

 科学に興味を持つのは、単なる個人的な理由からだけではありません。チベットの政治的な悲劇の根本的な原因は、近代化に対して扉を閉ざしていたことにあります。インドへの亡命する以前から、それは私にも、チベットの国民にとっても、すでに明らかなことでした。ですから私たちはインドへ到着するとすぐに、チベット人難民の子供たちのために、近代的なカリキュラムを持った学校を開設しました。そしてそれらの学校に初めて科学教育を導入したのです。そのころまでに、近代化の要は近代的教育にあることに私は気づいていました。そして近代的教育の核心には、科学と技術に関する能力の開発があるべきこともわかっていました。

 この一文に明治維新を思う。
 300年の鎖国による太平の眠りをむさぼっていた日本に黒船がやってきて開国を強要した。圧倒的な彼我の科学力・軍事力の差に時の要人たちは危機感を抱く。
「このままだと西欧列強諸国に侵略され、日本は植民地になってしまう!」
 その危機感が日本の急速な近代化を推進する原動力となった。
 それは結局、天皇制を利用した全体主義軍事国家への傾斜と、アジア諸国への無軌道な侵略と、国体を喪失する可能性すらあった全面的敗北と、国土の荒廃と膨大な命の喪失を招いただけであった。
 が、もし開国を迫ったのがアメリカでなく中国やロシアだったとしたら、もし日本が島国でなく大陸と陸続きであったなら、日本もまたチベットと同じ命運を辿っていたかもしれない。
 
(3) 科学と仏教の近似
 一見相反する位置にあるように思える科学と仏教には共通するものがある。

 確かに、科学と仏教の方法論は異なっている面もあります。科学的な考察は実験を通じて進められ、器具を使って外界の現象を分析します。一方、仏教の観照的な考察は研ぎ澄まされた注意力の開発から始まり、それを活かして内的経験を内省的に検討していくのです。しかし、どちらも強固な経験的な基盤を持っている点では同じです。・・・・・・・・つまり、仏教も科学も共に次のような姿勢に貫かれているのです。まず、経験的な方法を通じて現実を探究し続けるという確固たる方針。そしてその探究の結果として得られた真実が、一般に受け容れられてきた見解や長く維持されてきた立場とは異なる場合は、その古い立場を進んで放棄するということです。

 ただし、この場合の仏教とは中国を通じて日本にもたらされた大乗仏教ではなく、釈迦の教えを忠実に伝えるとされる上座部仏教、いわゆる小乗仏教である。上座部仏教の国にはタイ、ミャンマー、カンボジア、スリランカ、ラオスなどがある。チベットは大乗仏教圏に含まれるが、チベット仏教は中国や日本の大乗仏教とは違って、むしろ上座部の教えを基盤に置く大乗的発展という感じがする。(よく調べたことはないのだが・・・)
 ラマの次の言葉を読むと、輪廻転生という神秘を背負った彼自身がまったく迷信家ではないことが知られる。
 
 もし科学的な分析によって仏教のある主張が誤りだという結論が出れば、その科学的な研究結果を受け容れ、仏教の主張を捨てなければならないと、私は考えています。

 仏教と科学には、万物の起源を説明するのに超越的な存在を想定しないという傾向があります。こうした基本的な点で仏教と科学は共通しています。これは驚くにはあたりません。なぜならこの二つの探究の道は、哲学的な思考としては基本的に無神論なのですから。


 別記事で取り上げた本『科学するブッダ 犀の角たち』(佐々木閑著、角川ソフィア文庫)もやはり仏教と科学との近似を説いた力作だった。そこで佐々木も上記のラマとまったく同じ指摘をしている。
 一方、自分が隔靴掻痒に感じたのは、佐々木が最先端の科学についてはとてもわかりやすい懇切丁寧な説明を施しているが、もう一方の仏教については説明不足である点であった。量子論や相対性理論に代表される最先端科学と仏教とがどう近似しているかの照合が弱いと思った。単に、「経験的な方法を通じて現実を探求するという確固たる方針」「基本的に無神論」が共通するというだけでは、そもそもなぜ最先端の科学と仏教との近似に昨今「光」が当てられるようになってきたかが理解され得ない。
 さすがというか、当然というべきか、ラマは『科学するブッダ』では割愛されてしまったその点にも果敢に踏み込んでいる。 
  
 科学的な洞察は、私自身の仏教的な世界観をさまざまな面で豊かにしてくれました。アインシュタインの相対性理論や思考実験は、ナーガールジュナによる時間の相対性に関する理論を把握する上で、実証的に検証された側面を与えてくれました。量子物理学は想像し得る限り微細なレベルでの素粒子の動きを、実に詳細に描き出しています。おかげで万物がダイナミックにうつろいゆくものであるという仏陀の無常の教えが、実感としてわかります。私たち誰もが共有するゲノムの発見は、根本的に全人類は平等であるという仏教の見解を具体的に浮き彫りにしてくれます。

 量子力学と「空」の理論、相対性理論と仏教の時間論、観察者の役割、ビッグバンに代表される現在の宇宙論と仏教の宇宙論、ダーウィンの進化論と「業」の理論、仏教の意識論・・・・。科学と仏教それぞれの近似する理論・教えを、一つ一つ具体的に検証していく作業は、考えるだに骨の折れることで、双方の分野に精髄した限られた者にしかできなかろう。やはり、長年の真摯な科学に対する学習と、仏道修行によって獲得した智慧への絶対的な確信あってこその偉業であろう。

(4) 科学の行き過ぎに対する懸念
 ヒトゲノムの解読やクローン羊の誕生や遺伝子組み換え食品の登場など、遺伝学および遺伝子工学の大いなる進展を見て、科学の行き過ぎに対する懸念を訴えるラマの言葉は熱を帯びる。ある意味、この部分こそラマが本書で最も訴えたかったことなのではないかと思われる。行き過ぎる科学が倫理を踏みにじり、人類を含むすべての生命と地球という惑星に取り返しのつかない悪影響を及ぼす危機が待ち受けている。 

 「社会の責任はもっぱら科学的知識の進歩を奨励し、技術的な力を増強することだ」という立場は適切とはいえません。また、「科学的な知識と力をどう使うかは個人の選択に任せるべきだ」という主張も同様です。「研究やそれにもとづく新技術の創出に社会は介入すべきではない」というのであれば、科学の進展を統制する上で、人間的・倫理的配慮が何らかの役割を演じる可能性は、事実上排除されてしまうでしょう。私たち人間が何を何のために開発しているのか、これまで以上の批判精神を持って自覚的に見ていくことは不可欠であるだけでなく、私たちの責任なのです。
 
 科学の目的が純粋に「真理の追求」にあるならまだしも、実際のところは、一国の政治的・経済的優位を保つためであったり、科学者自身の名誉欲(たとえばノーベル賞)や金銭欲を追求するためであったり、企業や個人の果てしない欲望を叶えるためであったりするのが現状である。であればこそ、政府や企業も科学者に対して研究費を惜しまないのである。
 だが、こうまで科学技術の進展が人類の未来を大きく(どちらかと言えば否定的に)左右するに至っては、「真理の追求」ですら科学の目的としてふさわしいものかどうか疑わしい。「真理のための真理」は常に正当性があるのか。
 
 私が訴えかけたいのは、精神性の探究と、基本的な人間的価値の素朴な健全さと奥深い豊かさとによって、科学の向かう道や人間社会における技術開発の方向性に影響を与えていくべきだということです。精神性の探究と科学は方法論こそ異なるものの、本質的には同じ目的を目指しています。それは人類の生の向上ということです。最良の科学は、私たちが最大限の幸福と繁栄を享受できるようにするために、現実を理解する探究心に駆られているものです。仏教的な表現を使えば、このような科学は思いやりにもとづき、思いやりによって動かされているといえるでしょう。

 科学の行き過ぎに歯止めをかける枷として、仏教(=精神性の探究)の役割がますます重要になることをラマは暗に訴えている。仏教の目的もまた「真理のための真理(=悟りを得ること)」ではない。人類の生の向上=苦しみをなくし幸福になる、というところに存する。悟りは手段に過ぎないのである。

 
 以下、引用。

● 「空」について
 あらゆるものは、相互に依存しながら関係し合う出来事から成り立っています。固定的な不変の本質を持たない、常に相互作用のなかにある現象で成り立っているのです。そしてそうした諸現象の関係は、常にダイナミックに変化しています。ものや出来事は不変の本質や固有の実体を持っていないという点で、そして独立自存を可能にする何か絶対的な「存在性」を持っていない点で、「空」だといえるのです。

● 「縁起」について
 この世界は複雑な相互関係のネットワークで成り立っています。言語、概念、慣習などのさまざまな現象や環境との相互関係とは無縁の、個別的な存在は実在しません。主体は相手となる客体があって初めて存在しますし、客体もそれを感知する主体があって初めて存在します。行為者は行為があって初めて行為者であり得ます。椅子は脚、座部、背中、材料となる木材や釘がなければ存在できませんし、さらに椅子が置かれる部屋の床や壁、椅子を作る職人、それを「椅子」と呼んで、坐るためのものだと認めてくれる人があって初めて、椅子として成り立つのです。このような考え方によればさらに、あらゆるものや出来事は条件に左右される全く偶然のもので、徹頭徹尾ほかのものに依存しているといえるのです。


● 「業」について

 意図が行為を生み、その結果、心は特定の傾向や特性を持つようになり、それらはまたさらなる意図や行為を生んでいきます。こうしたプロセス全体が終わりのない無限のダイナミズムとして理解されているのです。原因と結果が絡み合うこの連鎖反応は、個人に対してだけでなく、集団や社会に対しても働き、それもこの一生の間だけでなく、多くの生涯にわたって影響していきます。