2010年刊行。

 田村雅美と大川ちひろ。
 二人の平凡な女性の半生を描いた小説である。
 二人が育った時代は、日本が高度経済成長を果たし「一億総中流」の豊かさを当たり前とする時代、素人の投機熱をあおったバブル全盛とその破綻の時代、テレビでは毎日のように歌謡曲が流れ、都はるみやキャンディーズや山口百恵の引退記念公演に人々が殺到した時代である。
 なぜ、こんな平凡な女性の平凡な半生をこまやかに描いていくのだろう?
 と思いながら読み進めて、全体の3/4まで達したところで次の一文が唐突に来る。

 大川ちひろと田村雅美――その二人が殺人の容疑で逮捕される未来があるとは、まだ誰も思わなかった。ちひろは夫を殺し、雅美は子供を殺すことになる。

 平凡な女性が一気に非凡になる。
 非凡な二人の女性の平凡な半生を描いた小説だったのである。

 この二人には実在のモデルがいる。
 大川ちひろは、2006年発生した新宿・渋谷エリートバラバラ殺人の容疑者として逮捕された三橋歌織。社長令嬢で白百合女子大を卒業、外資系企業のエリートと結婚したセレブ妻である。
 田村雅美は、同じ2006年に発生した秋田児童連続殺人の容疑者として逮捕された畠山鈴香。子供の頃から実父の虐待や級友のいじめを受け、実家の経営していた運送会社のトラック運転手と結婚、離婚後は生活保護をもらいながら女児を育てていた。


 なるほど。これはそういう本だったのか。
 何の予備知識もなく読み始めたので不意を衝かれた。
 橋本の坦々とした筆致は、一見正反対の環境にありながら、同じ人殺し(家族殺し)に至った二人の女性の共通点を探ろうとしていたのである。その一端に共通の時代背景が来る。
 橋本はまたこう思っているようである。
「娘の人生は母親の人生抜きに考えられない。」
 だから、田村雅美の母親である田村(栗木)正子と、大川ちひろの母親である大川(畔崎)直子の半生もまたくわしく描かれる。
 この二人は団塊の世代の女であり、野望あふれる男――今で言う青年実業家と結婚した女である。橋本はこの二人の母親同士が、今は全く交流はないけれど、かつてクラスメートだったという設定を仕掛け、罪を犯した二人の娘に当人同士の知らない接点(橋)をかける。小説家の企みである。

 二組の母と娘。
 四人の半生を通して見えてくるものは何か。
 それは母と娘の関係疎外である。現代を生きる「女」の受難である。

 もっとも、親子の関係疎外も女の受難もいつの世にもあった。
 その質が変わったのは、戦後、社会が多様化したからで、これまであった伝統的な家族制度やジェンダー規定が薄らいできたからである。
 つまり、女が自由になったからである。
 娘の人生が母の人生のなぞりであった時代、母のように生きさえすればとりあえず問題のなかった時代は、とうに終わった。
 だが、自由になった娘が社会で羽ばたけるほどには社会は(男は)女を受け容れてはいない。女たちの模索が始まる。
 その試行錯誤の中で失敗した事例にこそ、逆に、時代を生きる女たちの髄(ずい)が浮き彫りにされる。橋本がこの二人の殺人者を選んだのは、そう思ったからではないだろうか。


 小説の冒頭で橋本は、歌謡曲全盛の70年代の末尾を飾ったピンクレディーについて紙面を割いている。
 ピンクレディーは国民的アイドルとして頂点を極めたあと、解散した(1981年)。
 それは卒業でも引退でもなかった。
 その前(1978年)に引退したキャンディーズは「普通の女の子に戻りたい」という名言を残したが、3人のうち2人はカムバックした。その後(1984年)に引退した都はるみは「普通のおばさんになりたい」と言ったが、芸能界に復帰した。1980年に引退した山口百恵だけが引退に成功している(今のところ)。
 生き馬の目を抜く芸能界で華々しい成功を収めた彼女たちは「普通、平凡」に憧れた。しかし、彼女たちが夢にまで見た「普通」や「平凡」は、もはや幻想に過ぎなかったのである。

 自分を貫いて、「その先」をどうするのか? その答えは豊かさを達成しつつある日本のどこにもなかった。そんな答を求める必要もなかった。「その先をどうする?」などという問いを立てる必要もなかった。
「自由にやればいいさ」と人に言われ、自分にも言った。「普通の女の子になること」や、「愛される妻となって平凡な人生を歩むこと」が、栄光の先にある「目標」であるならば、どこにも問題はない。「ドロップアウト」という言葉は既に死語で、その代わり、「普通の女の子になるためには、まず栄光を手に入れなければならない」という逆転した前提が、新たなる姿を現しつつあった。

 この小説を殺人者の犯行動機を推察するドキュメンタリー小説として読むのは間違いであろう。そのように読むならば失敗作と断定されても仕方ない。描き出される容疑者二人の半生と、実際に犯した犯罪との間に、「橋」がかかっていないからである。この小説を読むだけでは、二人がなぜ後年あのような惨たらしい殺人を犯すことになったのかは解明できない。殺人に至るまでの加害者の環境・心理状態の変化も追っていないし、被害者との関係性も描かれていない。
 その点では、中途半端な印象は避けられまい。

 むしろ、橋本はこう言っているように思われる。
「彼女たちは、普通の人がやらないような人殺し(家族殺し)という特殊な犯罪を犯したけれど、我々と同じ時代を生きてきた、どこにでもいるような、まったく‘普通で平凡な’女達だったんだよ。彼女たちの抱えた‘空虚’は私たちにもある。彼女たちは私たちなんだよ。」