2014年自主上映。
『デンデラ』(2011年)以来の天願大介の映画とあって、上映される下北沢まで駆けつけたのである。人ごみ嫌い(特に休日の)、「若者の街」嫌いの自分にこんな衝動的行為を起こさせるのは、映画監督なら天願大介しかいない。
上映されたのは、アトリエ乾電池という名前の地下劇場。定員50名くらいか。
なぜ自主上映?
――と思ったのだが、入口で渡されたパンフレットに監督の言葉がある。
ここ数年、映画を取り巻く環境は激変し、映画の位置は変わってしまった。映画はもう特別なものではない。
僕が大好きだった「映画」はもう死んだのだ。ではこれから何をすればいいのだろう。
悩んだ末、辿り着いた結論は自主映画だった。もう一度自主映画を撮る。
自主映画とは、誰にも頼まれていないのに勝手に撮る映画のことで、それが俺にとっての「第二の選択」だ。
無前提に「映画」だからこうすると思っていたことを捨て、新しい方法を考えよう。
映画の位置がどう変わったのかは知るところではないが、今村昌平という大監督のサラブレッド(息子)にしてこのような苦境に立たされているのだ。あるいはサラブレッドだからこそ、時流に乗ることを拒んだのかもしれない。
いずれにせよ、すがすがしいまでに潔い決断である。
『魔王』は、あらゆる評価や解釈やこじつけを拒む映画である。監督の言うとおり、「無前提に‘映画’だからこうすると思っていたことを捨て」た結果がこの作品である。それ以上でもそれ以下でもない。
自分は『暗いところで待ち合わせ』のような美しい作品、『世界で一番美しい夜』のようなメルヘンチックな作品を半ば期待していたのである。
が、そのどちらをも裏切って「魔王」はふてぶてしいまでに観る者をあざむき、コケにし、理解を拒む。
それはまるで「お前の映画に対する愛なんて、しょせんその程度のものだろう」と突き放される、あるいは試される感覚である。
人には到底勧められない。
でも、やはり天願大介は天願大介だった。
なぜならこれを「映画でない」とは言うことができないからである。
映画的でないすべてを削ぎ落として残した結果が「魔王」だからである。
愛のあるC-を贈りたい。
観客はわずか5名ばかり。
うち一人は柄本明だった。
評価:C-
A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。
「東京物語」「2001年宇宙の旅」
A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
「スティング」「フライング・ハイ」
「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」
B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」
B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」
「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」
C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」
D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」
D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!