本:社会を変えるには 2012年刊行。

 著者は1962年生まれ。慶応義塾大学総合政策学部教授(刊行当時)。
 『単一民族神話の起源』(新曜社)、『日本という国』(イースト・プレス)ほか、いろいろな著書があるが、自分はこれがはじめて。
 500ページを超える分厚い本である。タイトルの壮大さからすれば、それも無理からぬ。

 いま日本でおきていることがどういうことなのか。社会を変えるというのはどういうことなのか。歴史的、社会構造的、あるいは思想的に考えてみようというのが、本書の全体の趣旨です。

 難しい本ではない。
 というより、難しく語ろうと思えばいかようにも難しく語れることを、素人にも分かりやすいように説明できるところにこの著者の才能がうかがえる。
 難しいことを難しいままに語るのは簡単である。簡単なことを難しく語るのも簡単である。難しいことをやさしく語るのが最も難しい。
 著者は、日本社会の現状から説き起こし、世界と日本の社会運動の歴史を概観、「民主主義とは何か」を古代ギリシャに始まる長大な政治史、科学史、思想史をたどりながら人類史(文明史)における意味合いの文脈で定義し、最後に本題である「社会を変える」方法を提起する。
 学者だから当然と言えば当然なのだが、著者の博識、歴史上の事件や発見などの事象の裏に隠れた時代の本質を見抜く洞察力、異なった事象同士を第三の視点から統合する発想力・創造力は、すぐれた推理小説にも似た解明に向うスリルと高揚感をもたらしてくれる。そこで解明されるのは現代という時代であり、そこに生きる我々である。
 著者のもう一つの才能は――これが十八番という気がするのだが――人間や人間関係についての真実をついたドキッとするような警句をときに発砲するところである。
 以下は、胸を撃たれ、唸った小熊語録。

●家族でも政治でも労組でも、お金や暴力に頼るようになるのは、人びとが「自由」になってきつつあるのに、新しい関係に移ることを拒否して、旧来の関係をむりやり保とうとするからです。お金や暴力は、関係が希薄になってくるところに、関係の代役として入り込んでくるのです。

●自己表現が自己表現でしかないときは、必ずしも人を動かしません。「あなたの勝手」で終わりです。・・・・・・・自己表現が人を動かすのは、その人が自己を尊重している姿勢が他人の「自己尊重」意識と共振したか、「自己表現」を貫いて「この世の幸福」や「この世の決まりごと」をかなぐり捨てたために結果として「この世の『私』」を超えたか、そのどちらかです。

●・・・・「私は社会とは関係ありません」とか「私が動いても社会は変わらない」というのは、悲観でも楽観でもなく、たんに不可能です。自分が存在して、歩いたり働いたり話したりすれば、関係に影響をおよぼし、社会を変えてしまいます。政治に無関心な人、不満があっても動こうとしない人が増えれば、確実に社会を変えます。自分が望む方向に変えるように行動するか、自分が望まない方向に変えてしまう行動をとり続けるかの違いです。

●外部から一方的に説教されても、人が動かないのは、説教する側が変化しないからです。変化しない相手には、人間はおもしろみや愛情を感じません。自分がかかわっていける足がかりがみえないか、一方的に支配されるか、崇拝するかの関係しか想像できないからです。あとはせいぜい、お金や利害をやりとりして、相手を手段として形式合理的に提携するしかありません。

●人類史的にいえば、政府と企業(市場)が強くなったのは十九世紀以降のことです。それ以前の社会では、政府でもない企業でもない「人の集まり」が、個人の手におえないことをやるのは普通でした。逆にいえば、「政府」と「市場」と「個人」しか思い浮かばない、それ以外は特別なものとしか思えない、というのはとても狭い考え方です。

●「デモをやって何が変わるのか」という問いに、「デモができる社会が作れる」と答えた人がいましたが、それはある意味で至言です。「対話をして何が変わるのか」といえば、対話ができる社会、対話ができる関係が作れます。「参加して何が変わるのか」といえば、参加できる社会、参加できる自分が生まれます。

●現代の誰しもが共有している問題意識があります。それは、「誰もが『自由』になってきた」「誰も自分の言うことを聞いてくれなくなってきた」「自分はないがしろにされている」という感覚です。これは首相であろうと、高級官僚であろうと、非正規雇用労働者であろうと、おそらく共有されています。それを変えれば、誰にとっても「社会を変える」ことになる、とは言えないでしょうか。
 ・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・
 となると、私の思いつくかぎりでは、答えは一つしかないようです。みんなが共通して抱いている、「自分はないがしろにされている」という感覚を足場に、動きをおこす。そこから対話をうながし、社会構造を変え、「われわれ」を作る動きにつなげていくことです。