老人ホームの仕事に就いて2年2ヶ月。
 「板についてきたな」と思う。周囲の先輩を真似ながら恐る恐る利用者の対応をしていた時期は過ぎて、今は自分の勘や経験や特技を頼りに、より個性を打ち出した介護をするようになった。
 もっとも、移乗や食事介助など介助の基本技術や感染症予防や接遇マナーなど、プロとして当然守るべき知っておくべき部分は前提としてある。そこは各介護者の自由裁量や個性や勝手が許される部分ではない。
 そこを超えた部分で、一人一人の利用者との関係のとり方を工夫できるようになってきた。相手を観察し、いまどういう身体的心理的状態にいるかを推察し、それに合わせた声がけやスキンシップやコミュニケーションやレクリエーションを試みるだけの余裕が生まれてきた。
 仕事を覚えるのに精一杯だった1年目、業務を円滑にこなすのに精一杯だった2年目を経て、ようやく一人一人の利用者の体と(特に)心の状況に気を配るだけの余裕が生まれてきた。
 何事も3年は続けないと、モノにならないものだなあと実感している。


1. 介護者の勘


 「板についてきたなあ」と感じる理由の一つは、勘が鋭くなったことである。
 たとえば、
● Aさんが今日は落ち着き無くフロアを歩き回っている
 →「便秘しているのかもしれない」
 →排泄シートを確認すると5日も便が出ていなかった
● Bさんが今日はわけの分からない妄想を口走っている
 →「水分が足りてないのかもしれない」
 →水分摂取表を確認するとここ数日1000ml/日に達していない日が続いている。
●Cさんがさっきから席から動かず固まっている
 →「失禁しているのかもしれない」
 →トイレにお連れするとパットに排便していた。
●Dさんがなんとなくいつもより口数すくなく大人しい
 →「熱があるのかもしれない」
 →測ってみると37.5度あった
●Eさんが仏頂面して食事も残している
 →「なにか不快なことでもあったのかもしれない」
 →暇を見て居室に伺うと、テレビの音量の件で隣室のFさんと口論したとのことだった。
● どこかの部屋のコールが鳴った
 →この時刻のこのタイミングなら、「ポータブルトイレをセットしてくれ」というGさんの要求だろう。
 →その通りだった

 ・・・・というような勘が働くようになってきた。これはやはり日数を重ねてきた結果、利用者を観察してきた結果である。勘が鋭くなれば、事前の対応や即座の対応が可能になるから、それだけ事態の悪化を防げるし、介助も業務もラクになる。
 とくに、認知症の利用者は自分の状態をうまく説明できないことが多いので、介護者が観察力と想像力と推理力を働かせることが大切である。


2. 男性スタッフの価値


 ヘルパー2級の講座を受けながら、「介護業界に本当に男性スタッフの需要ってあるのかなあ~」と思っていた。実習で行った老人ホームは圧倒的に女性スタッフばかりで、女:男=20:1くらいだったから、これが介護現場の実態と思った。しかもこちとら40後半のおっさん。仕事が決まれば御の字と思っていた。
 運よく今の施設に雇ってもらったわけだが、意外に男性スタッフが多いのである。女:男=6:4くらいか。施設の方針なのだろうか、20~50代まで各年代の男達が働いている。
 果たして男性スタッフは利用者に受け入れられるのか。

 主要な介護に排泄と入浴がある。利用者は、どちらの性にやってもらいたいと思うだろうか。
 男性利用者なら当然女性スタッフであろう。生意気な若造なんかにシモの世話をまかせるなんてコカンに、いやコケンにかかわる。同性にケツを拭かれたりペニスを洗われたりするなんて想像するだにおぞましい。(ヘテロの場合) 母親のようなオバチャンスタッフか、うら若き女性にこそお願いしたい。
 女性利用者もまた同性を希望するだろう。特に、いまのお年寄りは「男女7歳にして席を同じうせず」の時代を生きてきた。殿方に世話してもらうなんて恥ずかしいし、決まり悪いし、申し訳ない。主人にしか許したことのない秘所を、自分より50も60も若い男にまさぐられるなんて・・・・・。
 という偏見で、いずれにせよ男性スタッフの出番は少ないと思っていたのである。
 ところが、である。
 実際に働いてみると、男性スタッフの人気は高いのであった。

 まず女性利用者の場合。
 もちろん、移乗や食事介助はともかく、入浴や排泄は男性に介助されるのはイヤという人もいる。そういう方には女性のスタッフが対応する。
 だが、たいていの女性利用者ははじめのうちこそ男性スタッフに戸惑いや恥じらいを感じるものの、すぐに馴れてその良さに味をしめてしまうのである。
 というのは、この世代の女性は男性(亭主を含む)に優しい言葉をかけられたり、丁寧に世話されたりという経験が少ないからである。
 人間の真実として、いくつになっても異性に優しくされるのは嬉しいものである。(ただし、ヘテロの場合) それが若くてイケメンだったりしたらもう有頂天になるのも無理からぬ話ではないか。(自分はイケメンでも若くもないが・・・)
 女性利用者にとって男性スタッフとは、まんま“ホスト”なのである。ちょっとくらい介護技術が劣っていたって、ちょっとくらい顔がまずかろうが、構わない。ホストになりきれるかどうかが、女性利用者間に人気を得る最大のポイント、施設の経営陣が手放したくないスタッフになる秘訣である。
 で、良い介護ホストの条件とは以下の通りである。
 ①女性利用者の話を良く聞いてあげられること。
 ②理由を見つけては女性利用者を褒められること。
 ③笑顔とスキンシップ
 
 一方、男性利用者の場合が意外である。
 女好き、とりわけ若い女好きの利用者ももちろんいる。介護する女性職員の胸やお尻をさわったり、セクハラまがいの言葉を投げたりする男は想定内である。
 が、それより目立つのは男尊女卑の男たちである。
 彼らは、女性、とくに若いションベン臭い女性に世話されるのは屈辱と感じる。彼女たちに指図されるのはプライドが許さない。
 そこで、男性スタッフの出番となる。女性スタッフには居丈高な態度を示していた利用者が、男性スタッフ(特に会社なら幹部クラスの中高年スタッフ)には従順だったりするケースが結構ある。
 また、体が大きく体重の重い男性利用者にしてみれば、力のある男性スタッフによる介助の方が安心でもある。
 そういうわけで、男性スタッフの需要は決して低くはないのである。

3.きれいになっていく妻たち

 長年連れ添った夫を施設に入れた妻たちは、介護の重圧から解放される。
 彼女たちは、たまに訪れて職員と挨拶を交わすと、持ってきた洗濯したての衣類を部屋のたんすに入れ、汚れた洗濯物を持ち帰り、車椅子上の亭主と会話を交わし、散歩に連れ出す。日がな一日、することもなく退屈していた亭主も嬉しそうである。
 入所当時は、介護に疲れ果ててやつれた表情だった妻たちは、日が立つに連れて目を見張るほど、おしゃれに美しくなっていく。皮膚に張りがよみがえって、スッピンだったフェイスに化粧が施され、アクセサリーも賑やかになっていく。明らかに十歳は若返る。
 そんな妻を見ている利用者である夫は、どんな気分なんだろう。
 自分の世話から解放され、きれいになっていく妻の姿は、うれしいのか悲しいのか。よもや浮気は疑わないとは思うが、微妙な心境だろう。
 反対に、介助が必要となった妻を施設に入れた夫は、実にこまめに訪れて、懸命に世話する。食事介助も率先して行う。
 この場合、夫は決してダンディにはならない。むしろ、尾羽打ち枯らした様子で、「ちゃんと食事できているのかなあ」とスタッフが心配するほど、やつれていたりする。
 この傾向はどうやらどの夫婦間でも同じである。
 女性が長生きするわけだ。


4 介護拒否は「問題」ではない


 利用者による介護拒否――食事拒否、水分摂取拒否、入浴拒否、更衣拒否、離床拒否、レク参加拒否、リハビリ拒否、整容拒否、服薬拒否等――は日常茶飯である。これらに悩まない介護施設、介護者はいないだろう。
 ともすると、介護者はこれらの拒否を「問題」としてとらえ、拒否する利用者を「困った人」ととらえ、なんとかして拒否解除させようと頑張る。食事だったら、本人の好きな食べ物を用意したり、食形態を普通食から刻み食に変えてみたり、声がけしてスプーンで口元に食べ物を運んでみたりする。服薬拒否なら、薬を粉々に砕いて食べ物に混ぜてみたり、利用者の家族の名前を持ち出して「娘さんがお薬を飲んでほしいと言ってましたよ」と勧めてみたり、一度目が駄目なら時間を空けて再度トライする。
 拒否することにより不利益を被るのは利用者なのだから、介護者がいろいろ工夫をするのは当然である。「薬を飲まないことで痛い思いをするのはあなたご自身ですよ」と言ってほうっておければラクなのだが、やはりそれは許されない。利用者の意思や自己決定は尊重すべきであるけれど、当人の不利益になることが明らかである自己決定をそのまま認めるのは、いまの日本の高齢者介護の基本理念から逸れている。当人に無理強いはできないけれど、介護拒否をする原因を探ってその原因の除去に努めよ、というのが正論であろう。
 一方で、思うに「拒否」は利用者にとって精一杯の自己主張ではないだろうか。
 体も容易に動かせない、認知や難聴や欝でコミュニケーションも困難な利用者にとって、唯一の自己主張が介助に対する拒否ということもあろう。
 であるとすれば、利用者による介護拒否を介護者が「拒否する(=否定する)」ことは、利用者本人の自己主張を否定することであって、すなわち本人を否定することである。
 介護拒否があるのはあたりまえ、拒否できるほど気概のある人、自尊感情のある人ととらえて、まずは拒否を肯定的に受け容れる姿勢が大切だと感じる。
 それがあってはじめて、利用者とのコミュニケーションの道が開かれるのではないだろうか。

 一方で、「イヤよイヤよも好きのうち」タイプの利用者(とくに女性に多い)もいる。表面上は介護拒否をするのだが、本心は介護者からの強引な誘いを期待しているのである。いわば、学級委員選挙で自分から立候補せずに、誰かから推薦されるのを心待ちにしている優等生のようなタイプ。
 考えてみれば、一昔前の日本女性は何事も自分から積極的に打って出ず、周囲にほだされて「それほど言うなら仕方なく」という態度を示すことが「奥ゆかしい」「女らしい」と褒められて育ったのである。
 平成時代の自立支援を柱とする介護保険の対象者になったからって、いきなり「自己主張」「自己決定」ができるわけもなかろう。


5 生きがいづくり


 人はパンのみにて生きるにあらず。
 人はADLのみにて生きるにあらず。
 人はレクのみにて生きるにあらず。
 人は友のみにて生きるにあらず。

 老人ホームに入ると、毎日の食事の心配をすることはない。持病や障害を持っている人は多いが、急性期や痛みの強い時期を過ぎれば、とりあえず日々の健康管理とADL(日常生活動作)における必要な介助があれば、落ち着いた生活を送ることができる。日課として体操や歌やゲームなどのレクリエーションもあるし、同世代の仲間もたくさんいるから話相手には事欠かない。老化のしんどさや間近に控えた死の恐怖、そして施設や介護者や他の利用者に対する苛立ちやストレスはあるものの、ありあふれる時間の中での穏やかな生活が待っている。
 我々介護スタッフの目指す目標は、この段階(=穏やかな日常生活の実現)である。 
 
 しかし実際には、利用者にとって本当に必要なのはこの先なのである。
 毎日毎日同じ日課で、同じことの繰り返し――朝起きて、朝ごはん食べて、排泄して、ちょっと寝て、お茶飲んで、リハビリして、昼ごはん食べて、排泄して、入浴して、ちょっと寝て、おやつ食べて、レクして、夕ごはん食べて、排泄して、テレビ見て、パジャマに着替えてベッドに横になる・・・。
 平和な、何の問題のない、安定した生活。
 だが、これではただ「生きているだけ」である。自分の存在価値が感じられまい。
 何より退屈である。
 2年間介護の現場に関わってきて、やっぱりこの問題は大きいと思う。
 つまるところ、生きがいの問題である。
 認知症になればこの問題もクリアになるのかなあと思っていたが、実際には逆で、認知症の人ほど「存在価値の喪失」が深甚にこたえ、その表出が理性や世間体でコントロールできないだけに率直で激しいのである。いわゆる徘徊や帰宅願望や介助拒否などの「問題行動」である。
 こうした問題行動は、脳の障害とか便秘や水分不足とか薬のせいとか、身体的・医学的原因に還元されてしまいがちなのだが、自分はそれもあるが、そればかりではないだろうと思う。
 老いて、社会から引退し、仕事も役職も、職場や地域の人間関係も失い、家族からも距離を置かれ、何の役にも立たない自分。誰からも必要とされていない自分。(――って本当は我々介護スタッフに「少なくとも経済的に」必要とされているのは間違いないわけだが・・・)

 自分を支えるには生きがいの創出が必要であろう。
 若いうちから老いてもできる道楽を持っている人はいい。一日中飽きずに絵を書いている男性利用者がいる。家族のために凝った編み物をしている女性利用者がいる。孫のために自分史を書いている人がいる。ベランダに蘭を並べている人もいる。(一人でできるインドアの道楽ってところがポイントだ。)
 他の利用者や介護スタッフとの交流に生きがいを見出す人もいる。ある女性利用者は、50歳年下の男性スタッフに恋している。彼女の表情はまんま「恋する乙女」である。一日そのスタッフのことを考えて煩悶するのが彼女の目下の生きがい。ただ、人間関係ほど不安定なものはないから、これに依存するのは得策とは言えまい。
 同じ恋するなら神に恋したほうが永続性はある。(少なくとも死ぬまでは。)
 すなわち、信仰を生きがいとするのである。これはかなり磐石な支えと言える。
 思うに、一番お手軽で気持ちのいい生きがい(=存在価値の自認)は「誰かの役に立つこと(=必要とされること、感謝されること)」なのではないだろうか。


 最近は、介護施設定番のタオルたたみ・おしぼりたたみはむろんのこと、食後のコップ洗いやテーブル拭き、モップや掃除機による床清掃、花壇の草むしり、果ては他の利用者の車椅子を押す仕事まで、思いつけばなんでもやれそうな仕事をばんばん利用者にふっている。もちろん、自分がそばで見守りしながらではあるが。
 施設を訪れた第三者から見れば、「入居者に仕事を手伝わせるなんて、なんて怠けた職員なんだ。なんて非道い施設なんだ。これは虐待じゃないのか。」と誤解されそうだが、「自分はドジでノロマな亀なんです(古い)。手伝っていただいて助かります。」と言うと、「いつでも言ってください。できることなら何でもしますよ」と笑顔で答えてくれる利用者を見ると、「いくつになっても人の役に立つのは嬉しいもんなんだなあ」と思うのである。
 そのような機会をルーティンの日常生活の中でどれだけ創出することができるか、というのが目下の関心事である。



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