1996年刊行。

仏像は語る

 著者は仏師・仏像修理技師にして、天台宗の僧侶。2003年に88歳で亡くなっている。
 美術院国宝修理所に所属し、京都・三十三間堂で十一面千手観音千体像の修理に携わったのを皮切りに、日本全国の仏像を修理してきた。
 本書では、著者の長い仏像修理人生において体験した様々な興味深いエピソードが語られている。一つ一つの語りが興味深く、文章にユーモアと味わいがあり、謙虚でまっすぐな著者の性格が表れている。
 不思議な糸に引かれるように、中学の美術教師から仏像修理の道へと入り込んでいって、無事戦地から戻って復職し、しまいには廃寺同然だった京都・愛宕念仏寺の住職になって寺を再建してしまう著者の人生は、まさに仏縁に導かれているとしか言いようがない。謙虚さはその自覚から来るのであろう。
 戦地(中国)に4年間もいたにもかかわらず、著者は敵兵を一度も見たことがなく、もちろん弾一発も撃たないですんだと言う。つまり、人殺しをしないですんだのである。
 人を殺した手で仏像をつくったり、修繕したりすることは、到底できないだろう。
 まるで本土で修理を待つ仏像たちが西村を守ってくれたかのよう。


 はじめて知った面白い話はいろいろあるが、仏像に御魂を入れる話(開眼)、抜く話(撥遣)が興味深かった。 

 仏像が仏像になるためにはある儀式が必要です。仏像を造ったからといって、すぐにそれが仏の法力を発揮するわけではありません。仏像が完成して、祭壇に安置し、御魂入れの儀式、つまり開眼式というものを行なって、はじめて仏像は本来の仏像になるのです。

 仏像に御魂を入れるのは僧侶の役目であるが、その御魂をしっかりと仏像に結びつけるのは信者の信仰の力だそうだ。


 信者と仏の関係が真剣であればあるほど、いかに仏像そのものが壊れていても、御魂はその全身に、すみずみまで入りこんでいるのです。仏像の修理はごく頻繁に行なわれていますが、しかし修理するからといって、御魂が抜けているわけではありません。ですから修理するときには、まず御魂を抜いておかなければなりません。そうしないと御魂のある仏像に直接鑿をあてることになってしまうからです。

 撥遣式のやり方は、これも宗派によって異なりますが、天台宗の場合ですと、御魂を自分の手の中に取り上げてそれを空中に散らし、本宮へ帰っていただく、というやり方をします。手の中に取り上げるとは、まず両手を合掌の形にします。これは蓮華の蕾の形です。次に両親指と両小指はくっつけたままで他の指を開き、蓮弁が八葉にひらいた形にします。その八葉の蓮華の上に、これから修理する仏の御魂を乗せたと観想して、本宮へ帰っていただくのです。そして、
「あなたは今までここに御魂を宿し、私たちに多大なご利益を与えて下さいました。しかし長年の歳月の間に、あなたが宿っていた館が破損してしまいました。そこで修理をして完全なお姿にしたいと思います。その間、御魂は本宮へお帰り下さい。修理が終わりましたら必ず勧請いたします。お呼びいたします。そして開眼の式を行ないます。その後は今まで以上のご利益を私たちにお与え下さい」というような意味の誓いの言葉を唱え、さらに「オン、アソハカ」と呪文を唱えて、八葉の蓮華上に乗せたと観想した御魂を空中に散らします。

 そして、修理が終わった後に、再び御魂を入れる法要を行なうのである。


 御魂とは何なのだろう?
 迷信、気のせいと片付けてしまえば済むのだけれど、修理技師である西村には「抜けているか抜けていないか」が当然分かるのだろう。


 永久保貴一の漫画『密教僧秋月慈童の秘儀 霊験修法曼荼羅①』にも、主人公たる秋月慈童が二十年間封鎖していたお堂の本尊の魂抜きをして、開眼しなおすエピソードが出てくる。大体、上記の記述と同じような方法を用いている。

 世の中にはどうもまだ良く分からない、不思議なことがある。

 
P.S.今日テレビでたまたま観たが、起訴後、刑が確定しない段階で保釈金を支払って身柄の拘束を解く制度がある。この保釈金は本人に返還される、ということを自分は知らなかった。てっきり、国庫に没収されるものだと思っていた。まだ良く分からないことがある。