看護師が見つめた人間の死 1994年海竜社より刊行。
 1998年講談社より文庫化。

 宮子あずさの書くものは面白いので、これまでにも何冊か読んでいる。
 当人はベテランの看護師であるが、同業でない者でも、医学的知識のない者でも、面白く読むことができる。
 文章が上手くわかりやすいこともあるが、宮子の中心的興味をなしているのが人間観察にあることがその大きな理由であろう。
 看護師という立場で出会う様々な患者たちの生々しい姿と、それを取り巻く複雑な人間模様を、ペーソス豊かにわかりやすく描き出し、そこに宮子自身の思ったこと、感じたこと、考えたことを潜ませていく。そのバランスも絶妙である。
 明治大学文学部中退とあるから、本来文学少女だったのかもしれない。人間観察が好きなのだろう。病院という絶好の人間観察の場を得て、水を得た魚のように彼女の文系資質は開花し、医療従事者としてのプロの目と職業者としての倫理的自覚とを保ちながらも、彼女の筆致は自由である。

 ここでは彼女が病棟で出会った20名に及ぶ患者の、いろいろな死が描かれている。
 苦痛に悶えながら逝った人、安らかに天寿を全うした人、最期まで我儘言い放題で周囲を困らせた人、子どもたちの遺産争いに失望して逝った人、愛する者に看取られながら逝った人、家族から見捨てられて一人淋しく逝った人、信仰を支えに逝ったシスター、最期まで強い父を演じた男性・・・・と実に様々である。
「死は一つだけれど、死に方は千差万別なんだなあ」と実感する。

 しかし、読み終えて思ったのだが、他人の死を読むことは何の役にも立たない。
 一つには、いくら他人の死に方をたくさん知ったところで、公式化できるわけではないし、それが他の場合に――たとえば自分の家族や自分自身の死に方に――援用できないからである。死は予習できるものでも、傾向と対策を練られるものでもない。
 いま一つには、目の前の死を体験すること(看取ること)と、文章で読むこと(頭の中で想像すること)とはまったく違うからである。
 患者の家族にとってはもちろんだが、著者にとっても、一人一人の患者は顔なじみであり、姿や声や匂いや言動を通して人となりを知悉していて、会話や表情によって個別化された関係を築いている“生き生きとした人間”であり、“いのち”である。
 それがある日、消失する。
 その落差、喪失感はやはりエッセイではなかなか伝えきれるものではなかろう。 
 いきおい、読み進めていくうちに症例を読んでいるような気分になってくるのである。

 現代の日本では、著者のような医療従事者か自分のような介護職でもない限り、身近で他人の死を見る、看取ることは難しくなった。
 そのことが意味する本当のところが、まだはっきりと認識されていないような気がする。