上演日 2001年2月8日
劇場  リセウ大歌劇場(スペイン)
演奏・合唱 リセウ大歌劇場管弦楽団&合唱団
指揮  フリードリッヒ・ハイダー
キャスト
 エルヴィーラ: エディタ・グルベローヴァ(ソプラノ)
 アルトゥーロ: ホセ・ブロス(テノール)
 リッカルド : カルロス・アルバレス(バリトン)
 ジョルジョ : シモン・オルフィラ(バス)
 ヴァルトン卿: コンスタンティン・ゴルニー(バス)
 エンリケッタ: ラウエル・ピエロッティ(ソプラノ)

 自分がこれまでに経験した最も忘れられない衝撃的なリサイタルは、80年代後半に聞いたエディタ・グルベローヴァである。
 会場はたしか渋谷のオーチャードホールだった。
 声、容姿ともに全盛期のグルベローヴァの圧倒的な歌唱に魂を抜かれる思いがした。
 声が、銀色の珠となって次々と降り注いでくるのだ。
 ホールの高い天井から。
 これは比喩でなく、本当にそうだった。
 はるか向こうの舞台の上で口を開いている彼女と、天から降り注いでくる銀色の珠との関係がつかめずに、不思議な思いがした。
(これは本当に人間の声なのだろうか?)
 といって、美しい声を喩えるときによく言われるようなナイチンゲールの声、真珠の声、ビロードの声といったものではない。
 自然の音というより、むしろ宇宙船が飛行するような感じ、リニアモーターカーが浮揚して海面を滑るような感じ、とでも言おうか。なんだか近未来的な印象だったのである。人間の声は自然の賜物であるが、それを声楽的に鍛え上げた結果なのか、究極の人工的な美を現出していた。
 コロラトゥーラ・ソプラノの超絶技巧の見せ場である『ルチア』狂乱の場では、金縛りにあった。自分だけではない。会場全体がそのようであった。だから、前のめりに腰掛けていた自分の両手から本日のプログラムがするりと床に落ちたとき、その音の大きさは会場にいるすべての観客の耳に十分届くものであった。そして、自分は、両足の間に落ちたプログラムを拾うことすらできなかった。歌の磁力がそれを許さなかったのである。

 あれから20年以上がたち、なんとまあグルベローヴァはまだ歌っている。それも当時とそれほど変わりない歌唱を保ちながら。声は若干衰えたけれど、技巧や表現力は格段に高まって、演技力も風格も備わって、まさに円熟の域に達している。本当に凄い歌手だ。
 
 しかしながら、実は自分はオペラ作品におけるグルベローヴァはそれほど好きじゃない。
 一番の理由は、どうも彼女は「浮いて」しまっているように思えるからだ。
 共演者とのブレンドが果たされず、いつも彼女だけが目立ってしまっている。
 「グルベローヴァは歌手として別格なのだから、オーラーも人気も技巧も実力もひとり抜きん出ているのだから仕方ない」という意見はあろう。
 しかし、我儘なプリマドンナの代表選手であるマリア・カラスが、オペラの中では見事に共演者との呼吸を合わせ、一体となって、いや、むしろカラスの歌唱のリアリティによって共演者のレベルを底上げし舞台全体に‘真実’をもたらすような具合には、グルベローヴァの歌は作品全体を総合的にレベルアップさせることはない。いつもグルベローヴァの勝利で終わってしまうのである。
 その原因の一つは、指揮を務めるハイダーが彼女の亭主であることが大きいのかもしれない。ハイダーは、ベッリーニのためにではなく、グルベローヴァのために、振っているのだろう。
 
 アルトゥーロを演じるテノールのホセ・ブロスは、本人の性格の良さがそのまま表れているような風貌と声で、気に入った。