上演日 2004年7月10日
会場  アレーナ・ディ・ヴェローナ(イタリア)
演出  フランコ・ゼッフィレッリ
配役  蝶々夫人:フィオレンツァ・チェドリンス 
    スズキ :フランチェスカ・フランチ
    ピンカートン:マルチェッロ・ジョルダーニ
    シャープレス:ファン・ポンス
    ゴロー:カルロ・ボージ
オケ&合唱 アレーナ・ディ・ヴェローナ管弦楽団&合唱団
衣装  ワダ・エミ


『蝶々夫人』のクライマックスは主役の蝶々さん(ソプラノ)が登場する瞬間にある。
――と言った人がいるが、これは至言であると思う。
 他のオペラでもヒロインたるプリマドンナの最初の登場シーンは全幕中の‘花’であり、観客が期待と興奮をこめて固唾を呑んで見守るシーンであり、その日の舞台の出来を予感できるシーンである。『ノルマ』しかり、『トスカ』しかり、『椿姫』しかり、『ルチア』しかり。ソプラノの発する第一声の美しさ、声量、発声、感情の込め具合(役になりきっているか否か)、そして華々しく登場したソプラノのオーラーと存在感と表情や物腰――こういった要素を観る者(聴く者)は歌い出して数分のうちに分析し、評価し、判定する。
「おっ、今日は見に来て良かった」
「このディスクは当たりだ」
「ちょっとがっかりだったな」

 歌い出しの第一声で聴く者をたちどころに金縛りにしてしまい、舞台にあっという間にリアリティをもたらし、ほかの共演者のレベルを底上げし、劇場を感動と興奮の坩堝にしてしまう歌手と言えば、もちろんマリア・カラスが筆頭に上げられよう。カラスが歌い始めた途端、オペラは単なる有名歌手の歌合戦であることをやめて、人生と人間の真実を伝える壮大にして深遠なドラマへと飛躍するのである。
 1955年録音の『蝶々夫人』(カラヤン指揮、ミラノ・スカラ座管弦楽団)でも、カラスはその第一声から一途な恋にすべてを捧げる決意をした15歳の少女になりきっている。その一途さ、純粋さが、いずれは大人社会の軽率と不純に裏切られて悲劇に終わるであろう、自らを滅ぼすことになろう、ということを聴く者に予感させるに十分な表現の幅のある歌唱である。同時に聴く者はその筋書きを前もって知っているがゆえに、なおのこと、年端の行かない少女がなにも知らずに幸福に酔う姿を痛ましいものに感じて、胸がかきむしられるのである。
 そこにプッチーニは、途方もなく美しい言葉とメロディーを持ってくる。


 海の上にも、大地にも、すっかり春の息吹が感じられる。
 私は日本一、いいえ世界一、幸せな娘。
 聞いて、みなさん。
 私は愛に誘われて、やって来ました。
 
 このオペラのはじまりは、まさに蝶々さんの登場する瞬間である。それまでのピンカートンとゴローのやりとりも、ピンカートンとシャープレスのやりとりも、蝶々さんの登場を光彩陸離たるものにするための退屈な余興でしかない。
 最初の登場シーンにおいて、悲劇に終わる物語のすべてが凝縮され萌芽されているがゆえに、そして、とろけるように滑らかで官能的で、かつ蝶々さんの純真さと一途さを余すところなく伝えてくれるメロディラインゆえに、ここは全曲のクライマックスであるとしても過言ではないと思う。

 チェドリンスの蝶々さんは、この登場シーンにおいて、瞬く間に、アレーナ・ディ・ヴェローナの巨大な聴衆を、そしてその10年後自宅のソファで夕食をとりながらDVDを見ている自分を虜にした。
 舞台に姿を現す前から聞こえてくる、圧倒的な声の力強さ、美しさ、のびやかさにまず感嘆する。
 お付きの女性たちに囲まれて着飾った蝶々さん(=チェドリンス)が左右に開いた障子から姿を現した瞬間、ちょっと口元に笑みがこぼれるのは仕方ない。どう見たって15歳の日本娘には見えないのは仕方ないにしても、日本髪に結って着物を着たチェドリンスは、蝶々さんというより、大奥取締り春日局である。
 しかし、好きな人と結ばれる喜びに打ち震える少女の声と表情とをもって、チェドリンスが上記の言葉を繰り出すとき、特に「私は愛に誘われて」の部分で高音が鐘の響きのように会場を震わすとき、この舞台の成功と歌手としてのチェドリンスの実力のほどを確信するのである。
 春日局を蝶々さんに見せてしまわせるマジックこそが、オペラの魅力であり、歌の力である。
 あとは、ただただ幕間まで夕食に箸をつけるのを忘れて、モニターに見入ってしまった。

 チェドリンス、ブラーヴァ!
 
 ゼフィレッリの演出も、ワダ・エミの衣装も、共演者の歌と演技も(スズキとシャープレスが人間味あって良かった)も、どれも素晴らしく、最高水準の『蝶々夫人』である。ヴェローナで生(ライブ)で見たら(聴いたら)、生涯忘れられない夜になったであろう。