シャフク(社会福祉士)の資格を取るため4月より通信教育を始めた。
1年8ヶ月間、毎月のレポート提出(多いときには4本!)と4回のスクーリング参加(各2日~4日)、そして180時間(約4週間)以上の現場(施設)実習で、社会福祉士国家試験の受験資格が得られる。
2016年1月の試験で合格すれば社会福祉士とあいなるわけだが、自分の場合、カイフク(介護福祉士)の試験と重なってしまうので、先に難易度の低い介護福祉士を取得し、翌2017年1月にシャフク受験を予定している。(試験日が同じため両方一挙には取れない。)
現在、日々の仕事にしていて(老人ホームの介護職)、3年経過すれば自動的に受験資格が得られる介護福祉士だけでなく、なぜあえて社会福祉士の資格も取ろうと思ったのか。
実は自分でもよくわからない。
福祉系の就職に有利ってのはあるだろうが、齢も齢だし、今さらどこかの組織に属し社会福祉士(=ソ-シャルワーカー)として生計を立てるなんて気持ちはない。
それに、社会福祉士は名称独占であって業務独占ではないので、別に国家資格を持たなくても同種の活動はすることはできる。(実際NPOで働いていた時に相談援助業務はやっていた。)
あえて言うなら、暇だったから。
漫然と日々を送ってしまうよりも、何か目的を立ててそこに向かっていくほうが、充実感が得られる。
そして、職場の若い同僚に社会福祉士を目指しているイケメンがいて、触発されたから。(共通の話題が持てる!)
純粋なような、不純なような動機であるが、いくつになっても学ぶに遅すぎることはない。(ということを自身に証明したいっていうのもあるな。)
50万円近く自己投資して、「五十の手習い」をスタートした。
学び始めて驚いたことに、ここ20年くらいで、我が国の社会福祉をめぐる状況は180度(と言っていいくらい)変わっているのである。
その根本にあるのは、一つには、高度経済成長を過去のものとした現代日本社会における福祉ニーズの多様化、複雑化、高度化である。
障害者や母子家庭や生活困窮者など一部の特定の(恵まれない)人々のみが福祉の対象となるのではなく、ホームレス、ニート、ワーキングプア、家庭内暴力、子どもや高齢者などへの虐待、引きこもりの増加など、なんらかの形で福祉を必要とする層が増えている。少子高齢化はその最たる要因で、2005年には国民の5人に1人が高齢者(65歳以上)となって、福祉を必要とする層は今後も増加の一途にある。
つまり、福祉の普遍化が始まっている。
もう一つは、国際的な社会福祉の潮流(ノーマライゼーション思想や自己決定権の尊重)および福祉予算の増大を受けて、我が国の福祉政策に根本的変革がもたらされたことである。
それが2000年前後から始まった社会福祉基礎構造改革である。
ポイントを取り上げると、以下のようになろう。
1.「措置」制度から「契約」制度へ
2.民間団体も含めた多様な経営主体の参入促進
3.情報公開制度の導入と第三者によるサービスの評価
4.「施設」から「在宅(地域)」へ
5.「救貧的福祉」から「普遍的福祉」へ
6.「無料給付型福祉」から「応能負担型福祉」へ
7.「縦割り主義」から「統合的」へ
8.「パターナリズム(庇護主義)」から「自立支援」へ
この改革の典型的モデルが2000年から施行された介護保険制度である。
その後、この流れは他の福祉分野にも広がっていく。
障害者(難病患者含む)に関しては、2005年の「障害者自立支援法」を経て、2013年施行の「障害者総合支援法」で一応の完成を見、児童・家庭福祉分野では2017年施行予定の「子ども家庭福祉制度」で構造改革が遂行される。
この改革には賛否両論あるのだろうが、家族が面倒見切れなくなった障害者や高齢者について、これまで行政が一方的に行き先を決めて(措置)、しかもサービスの質は外部評価を受けないだけに酷かったものが、当事者の自己決定が全面に押し出され(契約)、民間団体の参入により競争原理が働き、情報公開制度によりサービスの質の向上につながることは、十分プラス評価に値する。
また、「介護の社会化」という言葉に象徴されるように、福祉が法律や制度という安定的な基盤をもち、資格を持つプロによって遂行され、介護保険料や消費税などの税金による国民の相互扶助の精神で目に見える形で支えられていくことは、最終的には(うまくいけば)北欧型の福祉制度に近づいていくことを予想させる。
過去20年、HIV感染者という「身体障害者」を対象とするボランティアに関わりながら、こういった日本の社会福祉事情の変化に疎かった自分にビックリするが、「基礎構造改革」が議論されていた当時の首相が自民党の小泉純一郎だったことが無関心の主たる原因だったのだと思う。彼の振りかざす「自己決定=自己責任」論は新自由主義の匂いが芬々とし、弱者に対して厳しい政策が進行しているという印象があった。
また、HIV感染者は後天的な内部障害ということで、肢体不自由者とも知的障害者とも介護の必要な高齢者とも、ちょっと位相が異なるというのもある。(施設に入る必要などないのだから。) しかも、現在ではHIV治療の進歩によって、感染してもAIDS発症を抑えることができるから、基本今までどおりの自立生活が可能なのである。
ともあれ、指定されたテキストをたよりに昨今の社会福祉の動向について勉強を開始したことで、自分が抱いていた「社会福祉」および「社会福祉士」のイメージは大きく変換を迫られることになった。自分の中では、90年代に仙台で市民活動をしていた頃の(基礎構造改革以前の)情報とイメージが固定したままだったのである。
社会は変わる。時代はめぐる。
やはり、いくつになっても学ぶことは大切である、ということを痛感している今日この頃である。 さて、メアリー・リッチモンド(Mary Richmond、1861 - 1928)は、アメリカのソーシャルワーカー(=社会福祉士)の先駆となった女性である。貧困層の救済を目的とした「慈善組織協会」で個別訪問に力を入れ、収集したケースワークを分析・理論化することにより、それまでの「慈善」から科学的な支援の方法としての「ソーシャルワーク」への道を切り開いた人物である。
彼女が1922年に発表した『WHAT IS SOCIAL WORK?(ソーシャルワークとは何か)』という本の邦訳が本書である。(タイトルはそのまま訳したほうが良いのにな・・・)
社会福祉の仕事に関わる者にとって、彼女の言葉は今でもまったく輝きを失っていない。
●ソーシャル・ケースワークとは人間とその社会環境とのあいだを、個々に応じて意識的に調整することにより、パーソナリティの発達をはかるさまざまな過程からなるものである。
●ケースワークという特殊な努力形態が成功するためには、まず個人の特性に対する高度な感受性が要求される。パーソナリティ、とりわけ自分自身とは似ても似つかないようなパーソナリティに対して本能的な敬意を払うこと、それはケースワーカーのもつ資性の一部でなければならない。ケースワークの目的はある優秀な典型をつくりあげ、人びとをそのような典型に合わせていくことではない。むしろ、各個人のなかにある最善の長所を発見し、それを解放し、伸ばしていくことがケースワーカーにとっての特権である。それは人間性の無限の変化に富むパターンに、さながら画家にも似た努力をもって深く働きかけ、その色調の深さと豊かさを発展させることなのである。
●人間は独立心を欠いた家畜ではない。人間が動物と異なっているという事実は、人間の福祉をはかる計画を立てたり、その計画を実行する上で、みずから参加する必要があることを明確にしている。個人はそれぞれの独自の意志と目的をもち、受動的な役割を果たすようにつくられてはいない。したがってもし人間がつねにそうした受け身の立場にとどまれば墜落しさえする。