10月10日(金)中野ゼロ

 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会への参加は、自分にとって、月のもっとも大切な行事となっている。
 スマナ長老の話を聞き、喝を入れてもらい、日々の瞑想修行のモチベーションを高める。同時に、世間的価値にすっぽり覆われた日常生活(世俗)から一瞬心を引き離して、自分のあり方や日常の物事を相対化して客観的に見る機会となる。それによって、またルーティンな生活に、新たな気持ちで向き合えるのである。
 そしてまた、どういうわけか、スマナ長老の話はいつも、その時々の自分の気持ちや瞑想修行の進捗状況にピッタリ来るような、心のうちに抱えている問いに対して見事に「解」をもたらすような、不思議な符号(=シンクロニシティ)がある。
 今回も、自分が今まさにぶつかっている壁の存在を察知して(他心通?)、それを乗り越える方法を具体的に示し、励ましてくれるかのようなテーマと内容で、講演終了後に「わかりました。やってみます」と心の中でつぶやいた。


 今回のテーマは、目的に達するための継続力について。(以下、概要) 
 

「世に魔法はありません」
ゆえに、成功するためには地道な努力が必要である。
しかし、努力だけでは成し遂げられない。結果がでるまで継続することが重要。
一般に(俗世間的に)、人が継続するためのモチベーションとして用いているのは、「欲や怒りや嫉妬や恨みや傲慢などの悪感情」である。
しかし、「貪(欲)・瞋(怒り)・痴(無知)」で始めたことは、「貪・瞋・痴」で断念することになる。最終的には不幸になる。
「欲--たとえば、金儲けしたい、いい暮らしがしたい、出世したい、ひとかどの人物になりたいetc.--がなければ、そもそも商売や仕事ができないではないか」と反論したいと思うが、それは間違いである。
仏教的戦略は以下の通り。
1. まず、怒りを捨てること。悪感情から起こる「やる気」は堂々と断念すべき。
2. 欲を慈悲喜捨に変換すること。生きることは慈悲喜捨を実践するためにあるのだと決めてしまえば、何一つもあれこれ考えたり、悩んだり、心配したりする必要はない。
3. 理性と慈しみで目的を設定する。目的がない行為は決まって悪感情の衝動から生じている。慈悲喜捨で設定された目的ならば、やればやるほど明るくなる、元気になる、喜びと充実を感じる。
4. つまり、自然と目的に達するまで進むので、継続力は問題にならない。


しかし、慈悲喜捨で実践しても努力を止めたくなることがある。
それは、心に潜んでいる悪感情(=煩悩)のせいである。
悪感情が割り込んでくるたびに、慈悲喜捨でもってその感情を潰すことがポイント。
慈悲喜捨で生きれば、人生、自分のせいで失敗することはない。


 と、ここまでが世間的なレベルの話である。
 あまり知られていないが、仏教には、世間的レベルの教えと、出世間的レベルの教えの二種類がある。
 単純に言えば、前者は在家信者向けの教えで、「いかにすればこの世で人と争うことなく幸福に生きられるか。死んだら天国に生けるか。良い生まれ変わりができるか」という教えである。後者は出家者向けの教えで、「いかにすれば苦を終わらせることができるか。この世から離脱できるか。生まれ変わらなくて済むようになるか」という教えである。
 スマナ長老の話は――初期仏教の説法は、というべきか――だから、二段構えになることが多い。
 後半は、出世間的な「継続力」の話であった。
 ここからが仏教の本領であり、いまだに衝撃を感じることなしに聴くことは難しい。
 
生きることに目的はない。
存在欲(渇愛)によって、誰でも何かをしながら、死ぬまでただ闇雲に闘っているだけ。
ゆえに生きることは空しい(=一切皆苦)。
出世間的な生き方とは、生きることを断念するのではなく、そこから脱出する。
すなわち、生きることを乗り越えることを、生きる目的として設定する。
それが仏道の実践である。
「貪・瞋・痴」という本能に抵抗し、打ち勝つことが、真の精進である。

 今回、ドキッとした表現に「存在の罠」というのがあった。
 どういう意味か。


私たちは、普通に働いて、普通に家族を養って、普通に生活を送っていても、知らずに悪に染まってしまう。なぜなら、欲や怒りという煩悩こそが人の(動物の)本能だからである。世間の流れに沿った生き方は、人を安心させるが、実は危険なものである。  

 つまり、この世に存在するということ自体、あらかじめ罠にはめられているようなものだ、という意味である。
 本当に、仏教は西欧人の好きな「ブラボー、人生!!」とは程遠いところにある。
(ある意味、‘反社会(反近代)的’という烙印を押されても仕方ない気がするのだが、‘脱社会的(脱近代的)’というべきだろう。その昔‘ポストモダン’という言説が流行ったけれど、仏教こそが真の‘ポストモダン‘なのかもしれない。) 


 さて、スマナ長老の話は続く。 

仏道を実践すると、必ず本能の反撃があります。「貪・瞋・痴」の攻撃を受けます。
煩悩は、修行中に「妄想」として現象化します。
そうすると、修行を止めたくなります。
瞑想中に妄想が起きたときには、
① 座る場所を変える
② 修行の方法を変える(座る瞑想から立つ瞑想にする)
などの方法をとります。
日常生活では、
① 仏法を学ぶ
② 慈悲の瞑想を行なう
③ 社会奉仕をする
などして、煩悩に対する抵抗力をつけるのがポイント。
結果がでるまで、あきらめないでください。

 ――といった内容であった。

 今回、驚いたのは、最後の質疑応答で手を挙げた参加者の中に、16歳の男子高校生がいたことである。
 このような話をわざわざ平日(おそらく学校が終わってから)聞きに来て、大人たちで埋まっている会場の中で挙手するとは、たいしたものである。
「自分がこれから生きていくにあたって、これだけはしておいたほうがいいというものは何かありますか?」
というような質問内容だったと記憶する。
 彼のような子供は、教室で‘浮く’のだろうか。
 孤独を担わざるをえないのだろうか。
 この先社会で生きづらさを感じることになるのだろうか。
 それとも、意外にいまどきの‘マジョリティ’なのだろうか。 


 ともあれ、このような十代が存在するという発見が、「よし、おじさんも一つ頑張らねば」というやる気につながったのは事実である。
 2時間話したスマナ長老と同じだけの効果を、ほんの5分で成し遂げるとは!

 後世、畏るべし。 


Water lilies