介護技術講習 先日、介護技術講習を受けた。

 専門学校を出ていない人間の場合、介護福祉士の資格を取るためには3年以上の実務経験と、毎年実施される国家試験に合格する必要がある。国家試験は1月の筆記試験にパスした者が、3月の実技試験を受けることができる。
 この実技試験がなかなか難物である。
 試験官数名の前で、その場で与えられた課題(移動、排泄、更衣、入浴、食事などの日常介護)を5分間でやらなければならない。むろん一発勝負である。どんなところが合否のポイントになるかは調べれば分かるのだろうが、当日緊張して頭が真っ白、体が思うように動かないなんてことになれば、せっかく筆記試験に合格していてもそれまでの努力が水の泡。もう一度、最初から受けなおさなければならない。
 それに、試験内容を自分なりに研究したところで、また、普段の介護業務にそれなりの自信があったところで、どうしたって「我流」であったり「職場流」であったりしがちである。実技試験のみの合格率は発表されていないのでなんとも言えないが、厳しい試験官のお眼鏡にかなって無事合格するには不確定要素がありすぎる。
 介護技術講習を受ければ、この実技試験が免除される。そうなれば、あとは筆記試験に精力を傾注できる。介護福祉士試験は、国家試験としては難易度が低く合格率が高い(6割程度)ので、かなり気楽である。自分の職場でも、あえて実技試験を選ぶという人は皆無に近く、実務3年経過したところで介護技術講習を受けるのが普通である。
 4日間の講習に5万円近くかかる。
「いい商売しているよな~。結局、お金で資格を買うようなものじゃねえか」
と苦々しい思いはしないでもないけれど、介護福祉士を持っているかいないかで職場での待遇も給与も転職しやすさも違ってくる。
 ここは経済の活性化に寄与することにした。

 4日間の講習は、座学3割、グループワーク1割、演習6割であった。
 介護過程の展開(介護計画作成含む)、実際の介護技術(コミュニケーション、移動、排泄、更衣、食事、入浴)の要点を座学と演習とで学んで、クライマックスは最終日の午後に行なわれる総合評価、いわゆる実技試験である。
 本番の国家試験の実技試験を免除するためのものなので、この総合評価で「落とされる」ことは基本ない。「合格させるための」確認試験である。出題課題も明らかで、それまでの3日間の演習でやってきた10個の介護シナリオの中から、どれか一つが出題されることがあらかじめ告げられていた。だから、10個のシナリオのセリフと動きを、役者が台本を暗記するように覚えてしまえばよいのである。
 それでも、本番さながらに、一人ずつ試験会場に呼ばれて、チェックボードを手にした試験官を前に、モデル役の講師を相手に、直前に発表された介護課題を5分以内で滞りなく行なうのは、緊張する。その場に立ってしまえば、もうまな板の上の何とやら、もう「やるっきゃない」わけだから肝も据わろうというものだが、名前を呼ばれるまでに他の受講生らと待機している教室の緊張感がはんぱない。待っている間は「私語は禁止、資料確認も禁止」なので、張りつめた沈黙の支配する空気の中、じっと何もせずに、緊張と不安と闘っていなければならない。しかも、自分の出番は最後のほうだったので、待つこと1時間弱。久しぶりに味わった緊張感であった。
 このときほど「瞑想を知っていてよかった~!」と痛感したことはない。
 1時間の待ち時間、ずっと椅子に座って、ヴィパッサナー瞑想をやっていた。
 そのおかげで、本番はとても落ち着いて、ほぼシナリオどおりにこなせたのであった。

 さて、この4日間の講習で感じたこと。


1. 介護は人なり

 演習とグループワークは、4日間を通して同じ顔ぶれで行なった。自分のところは8人グループであったが、その顔ぶれはいろいろであった。年齢も20~50代までいたし、職場も有料老人ホーム、訪問ヘルパー、老人保健施設、特別養護老人ホーム、デイサービス、重度知的障害者支援施設、障害者の就労支援施設とバラバラであった。
 超高齢化社会の現状を加味してか、介護福祉士の試験も、この介護技術講習も、高齢者介護を中心に編まれているので、障害者分野で働いている人にとっては普段全然やっていなくてはじめて知ることばかり・・・という感じだったようだ。
 演習では、はじめに講師が全員の前で食事なり排泄なりの介護課題の見本を示し、次はグループに分かれ、ペアになって介護者と介護を受ける高齢者の役を演じていく。
 面白いのは、基本全員同じこと(見本どおり)をやっているはずなのに、介護者役をする人の「普段現場でやっている介護」が出てしまうところである。荒々しい動作で介護する人、すぐに相手の体に触って助けてしまう人、上から目線で介護する人、自信なさそうに介護する人、段取りはいまいちだが気持ちのよい笑顔で相手に接する人・・・・。「たぶん、この人は職場でもこういう介護をしているんだなあ~」と丸分かりなのである。
 もちろん、自分の介護にも「自分」が丸出しになっているはずだ。
 介護には性格が出る。


2. 介護を支える人々

 介護技術講習は、専門の福祉系学校を出ていない人が受ける。多くは、ヘルパー2級講習(現在「介護初任者研修」と名前が変わった)を受けただけで、介護現場に出た人たちである。ということは、もともと介護の仕事を目指していたわけではなく、はじめは何か他の仕事に就いていて、訳あって介護現場に飛び込んだ人たちである。
 そういう意味で、バックグラウンドさまざまな人がいるのが面白い。自分の職場(老人ホーム)だってそれは同じことなのだが、職場は採用のときに面接官がある程度「職場の理念や雰囲気にあった人」を選ぶから、どことなく似たような感じの人が多くなる。
 同じ介護職でも異なった現場で働く人たちに会ってみると、介護を支える人たちのバリエーションの広さを実感する。自分と一緒のグループの人たちは、一流大学を出て名の知れた企業で働いていたものの転職を余儀なくされた中年の人、出産してから主婦一筋だったが子どもが手を離れたので「何か仕事を」と働き始めた人、高校卒業後フリーターでいろいろな仕事を渡り歩いてきた挙句に介護に辿り着いた人、不器用でどんな仕事をやっても続かなくて「介護くらいしかやれる仕事がない」という人、水商売と訪問ヘルパーを掛け持ちしている人・・・など「人生いろいろ」であった。
 一方で、福祉系の学校を出て、他の職種を経験することなく介護の仕事に関わるルートもある。純粋培養介護職とでも言おうか。彼らは、当然ながら福祉に対する思い入れが強く、理想に燃えていて、専門の学校で介護理論や専門技術をしっかり身につけてくる。概して頭もいい。(このルートだと今のところ、実務経験なしでも、国家試験を受けることなくても、介護福祉士資格が取れる。)
 2年半介護の現場で働いてみて思うのだが、「純粋培養介護職」よりも、社会に出て他の業種や人間関係を経験してきた「途中乗り換え介護職」のほうが、利用者の心に沿えるような感がある。というのは、利用者のほとんどが、介護職以外の社会人経験の持ち主だからである。
 介護職というのは、学歴社会ではないし、男女平等(むしろ女性のほうが強い)だし、会社のような上司と部下といった強い上下関係もないし、外部とのメンドクサイ折衝もないし(せいぜい利用者のご家族対応くらい)、ノルマもない。5K(きつい、きたない、きけん、くさい、給料安い)と言われるけれど、やることさえやっていれば給料は保障される。感謝もされる。経営陣を別にすれば、世間の荒波からはどちらかと言えば免れている。
 利用者の多くは世間の荒波にもまれて何十年と生きてきたのである。そういう年配者の気持ちを汲むには、純粋培養介護者ではなかなか難しいのではないかという気がしている。
(もちろん、本人の資質も大きいが。)


3. 介護のプロ化

 介護福祉士という国家資格が創設されたのは、介護のプロ化が目指されているからである。
 この「プロ化」が意味するのは、介護技術が巧みになるとか、利用者の様態の変化を敏感に察知できる観察力が備わるとか、利用者とのコミュニケーション能力が高まるといったような日々の具体的な介護力の向上を意味するだけではない。何よりも介護過程の展開を理解し、目の前の利用者について目的に沿った適切な介護計画を立てられ、計画通りのことが看護師や理学療法士等の他職種と、必要に応じ連携しながら実行できる、というところにある。目的とは「その人らしい尊厳のある自立した生活の実現」である。
 介護保険の開始に伴い、ケアマネジメントが導入され、介護計画が必須となった。介護福祉士たるもの、この介護計画を理解し、そこに沿った介護を提供できなければならない。行き当たりばったり、困っているところに手を貸す介護ではダメなんである。
 今回の講師がいみじくもこう言った。
「現在介護を受けている戦前生まれの高齢者は、‘介護してもらっている’という感覚の人が多い。自分たちが受けている介護のあり方について文句を言うことも少ない。でも、これから団塊の世代が介護を受けるようになります。権利意識の強い彼らはどんどん介護のあり方に口を出すようになるでしょう。そのときに介護職は、‘なぜいまこういう介護をするのか’という彼らの問いに、きちんとした根拠をもって答えられるようにならなければなりません」
 つまり、介護には「頭」が要る。
 「途中乗り換え介護職」が「純粋培養介護職」に後れを取るのはここであろう。
 福祉系学校で介護を学んできた者は、時間をかけて、体系的・理論的・学際的に介護を勉強してきている。介護保険という国の決定した枠組みの中で、今の介護がどうあるべきかを教室で専門家から学んでいる。その最たる部分が介護過程の展開である。
 今回の技術講習の最終日は、サンプルとなった利用者について、アセスメントによって取得した情報から分析を行ない、課題を見つけて、介護計画を立てるというグループワークであった。
 やはりここで、ある種の学力の差が出てくるのは否めない。リーダーとなって作業を進める人、自分の意見はガンガン言えるが作業全体の流れが読めない人、一言も発言せず他の人に任せきりの人、分析の意味が理解できない人・・・。ふと、中学校時代に戻って、授業でやったグループ作業(模造紙にグループで話し合った意見をまとめるようなもの)を思い出したのである。
 差別的に聞こえるのは本意ではないが、介護の仕事はかつてはどちらかと言えば「頭を使わないで済む仕事」=「たいして頭の良くない人でも就ける仕事」であった。逆に言えば、頭でっかちでない、心の優しい人や体力には自信のある人、ちょっとトロくても人あたりが良くて利用者に慕われる人が重宝されたはずである。
 介護のプロ化(資格化)は、そういう人たちに「心」や「体」だけでなく、「頭」を要求する。
 時代の流れ、状況の要請なのだろうが、本当に心やさしくて利用者を和ませる雰囲気を持った人が、資格(試験)の壁に阻まれて、介護の現場からはじかれるとしたら、もったいない話である。


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