12月6日(土)中野ゼロにおける日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会。

 今回のテーマは、‘やめたいのにやめられない’好ましくない習慣(悪癖)を如何にしてやめるか、というもの。
 仏道修行を生きる糧としているのになかなか飲酒がやめられない自分にとって、ドキッとするテーマである。

 開口一番、スマナ長老は宣言する。

「やめたいのにやめられない」と言うのは嘘です。本当にやめたいのだったらとっくにやめているはずです。実は‘やめたい’と思っていないのです。自分の意思で好んでやっているのです。

 まさに図星。
 飲酒をやめたほうが絶対に修行がはかどると分かっているのに、飲んでいる時間や酔っ払っている時間をもっと有効に使えるのは明らかなのに、「まあこれくらいいいではないか」と自分を甘やかしているのが事実である。
 「理性を失って、あとから後悔するような言動をしないでいられるレベルまでならOK」とか、「自分一人で部屋でたしなむ程度(缶ビール一缶)なら、誰に迷惑かけるでなし、よいだろう」とか、「赤ワインは健康ドリンク(ポリフェノールたっぷり)であってお酒のうちには入らない」とか、「若干の飲酒は寝つきを良くするから」とか・・・いろいろ理屈をつけて飲み続けている。
 お酒が好きか、赤ワインが好きか、酔っている状態が好きかと言うと、実のところそうでもない。
 では、なぜ飲むのか。
 自己分析するに、一つには「あまりストイックなお堅い人間にはなりたくない」という牽制が働くからである。自分に厳しい人間は他人にも厳しくなりがちなので、車の運転操作で言うところのある程度の‘あそび’があったほうが良いのではないか、と思うからである。(これもまた言い訳?)
 もう一つは――こっちのほうが真相を突いていると思うが――飲酒に依存しなかったら、もっと大変なものに、人生を狂わせてしまうほど厄介なものに依存してしまいそうだからである。
 たぶん、多くのアルコール依存症やニコチン依存症の人の深層心理にこの思考が働いているような気がする。
「明らかに自己破壊につながるもっと依存性の強い‘あっち’を我慢しているのだから‘こっち’くらい許してよ」
「‘こっち’くらいでなんとか制御しているおかげで、もっと自分をダメにするであろう‘あっち’の習慣に行かないで済んでいるんだ」
--という思考である。
 このからくりというか内心の弁明は、当事者でなければわからない。外側からカウンセラーやソーシャルワーカーや医師や保健師が、いくら本人に「お酒をやめろ」「タバコをやめろ」と言ったところで、このからくりを理解しない限り、立て板に水であろう。当事者ですら自覚していないのが普通かもしれない。

 そんなわけで飲酒をやめないでいる自分なのだが、どういうわけか、最近自分の友人たちでお酒をやめる人が続出している。「あんなに日本酒好きだった奴が!」「週末になると必ず飲み屋に出入りしていた奴が!」次々と、「自分お酒をやめました」宣言をしてくる。
 いったい、何が起こっているのだろう?
 たしかに、自分の友人たちはもういい歳(40~50代)である。体の負担を感じてもおかしくはない。人生ももう秋、お酒を飲んで無駄にする時間がもったいないと思っても不思議ではない。自分もまた「お酒の席で話したことや起こったことや意気投合したかに見える人間関係は、そのときは非常に意義を感じたり、価値を感じたり、得したような気分になったりするが、醒めてみると、結局益するものが少ない」と、飲酒生活30年でいい加減気付いている。
 飲酒で得することと損することを比べれば、やっぱり針はマイナスに振れるであろう。

 話を戻して。
 「やめたいのにやめられない」は欺瞞であり、「やりたいからやっているのだ」と正直にはっきりと自覚することが大切である。
 「やりたい」は欲望であり、心に生じる様々な感情や気分(=悪感情)をもとに熾ってくる。この悪感情がうごめいている段階で、それをしっかりと認識し、それに流されないで客観的に分析する。いま悪感情と言ったが、仏教では感情はすべからく悪感情である。感情による判断は決まって間違っている。
 以下、スマナ長老直伝の仏教による「悪感情に打ち勝つための方法」。

1. まず、心に様々な感情が湧く。
2. そのとき、「この感情でいる私は幸福、楽しみ、安らぎを感じていますか? 苦しみ、不幸を感じていますか?」とチェックする。
3. 行為をしたくなった時も同様にチェックする。
4. 行為するときも、して終わってからも、同様にチェックする。
すると、
5. 正道が徐々に現れる。
6. 行為と感情の関係がわかるようになる。どのような感情が、どのような行為を引き起こすかを発見できるようになる。
7. 正しい行為によって、自分がどのように幸福になっているのかを理解する。
8. 自分の正しい行為で他者も幸福になるのだと発見する。
さらに、
9. 無知のせいで、無常なる現象に執着していたことも、執着が不幸を司っていたことも、執着はもともと成り立たないことも、発見する。
10. 執着を減らす生き方をすることで幸福に生きられることも、執着を捨てることで究極の幸福に達するのだということも発見する。

 人間がやっているすべてのことは、原始脳が司る「存在欲(=生きていたい!)」と「恐怖感(=死にたくない!)」から熾っています。あらゆる感情は、この「存在欲」か「恐怖感」を基盤として、そこから派生しています。人間は、原始脳(獣の脳)に支配されています。大脳が原始脳に支配されているのです。
 不幸と苦しみを作り出す原始脳の支配を破って、客観性と理性で働ける大脳に支配権を与えることが仏道修行です。

 いつもながら大胆すぎる。
 人が働くことも、子供を生み育てることも、家族を養うことも、勉強して偉い学者になることも、政治家になることも、練習を重ねて超一流のアスリートになることも、芸術を創造することも、友達をつくることも、恋愛することも、他の人を助けることも、すべてが原始脳の働きと言うのである。そして、そこから脱出しなさいと言うのである。

 と、ここまで書いてきて気づいた。
 自分が飲酒をやめられない今一つの理由は、真の仏教徒になることへのためらいの表れなのだ。こんな途方もない、ある意味‘非人間的な’思想を本気で受け入れて、彼岸に渡ってもいいものかどうか、深い崖の前でおびえているのである。(むろん、この感情こそエゴの仕業であろう。)

王様の涙