【日時】2015年1月10日(土)13時00分 ~ 16時30分
【会場】東京:日暮里サニーホール
【主催】日本テーラワーダ仏教協会

 新年最初の法話、寒さも手伝って身が引き締まる思い。
 サニーホールは荒川区の施設で日暮里駅の近くにある。はじめて来たが、きれいでファッショナブルなホールである。日暮里舎人ライナー開通以降、このあたりもどんどん垢抜けていく。

 400名定員のホールは8割がた埋まっていた。
 やっぱり圧倒的に男性が多い
 テーラワーダ仏教は「心の科学」と言われるくらい論理的で実証的である。キリスト教のように愛や信仰を重視するのでなく、各々の修行による智慧の開発・確信をもっぱら重視する。そのあたりが男性向けなのかもしれない。スマナ長老の人柄もあろうか。歯に衣を着せずに容赦なくズバっと核心を突く鋭さは、‘慈悲’よりも‘智慧’の人というイメージを抱かせる。(むろん、慈悲の深さは限りないものであるが・・・)

 今日のテーマは、「仏法を知ってるつもり、修行をやってるつもり」になって、実際には成長がストップしている修行者に向けて、渇を入れるものであった。
 まさに自分・・・・!
 スマナ長老の著書を含め数々の仏教書を読んで学んだことや、毎日のヴィパッサナー瞑想で発見したことで、「自分は人より(テーラワーダ)仏教を知っている、世のありよう(無常・無我・因縁・苦)を理解している」とどこかで‘上から目線’になっていた。それが修行の進歩を妨げて、同じところを堂々巡りしていたのであった。毎日行なっている慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想、および月例の講演会参加も含めた仏法の勉強、それでOKと安心してしまい、それ以上の努力を怠っていたのである。 

修行によって発見した、体験した真理を使用することで、実践することで、復習することで、真理に達するのです。ヴィパッサナー瞑想で発見したこと(無常・無我・因縁・苦など)を実践して生活することが大切です。

 生活における実践、つまりそれが八正道なのだろう。
1. 正見  ・・・・・正しく見る
2. 正思惟 ・・・・・正しく考える
3. 正語  ・・・・・正しい言葉を語る
4. 正業  ・・・・・正しい行いをする
5. 正命  ・・・・・正しい仕事をする
6. 正精進 ・・・・・正しい精進をする
7. 正念  ・・・・・正しい気づきを行なう
8. 正定  ・・・・・正しい集中力を養う

 自分の場合、特に3と4、つまり普段の言動をもう少し注意したほうがよさそうだ。昔に比べれば、ずいぶん自分をコントロールできるようになって、他人に対する余計な言動やあとから後悔するような言動は減ったと思う。
 でも、まだまだ「つい、言ってしまった」「つい、やってしまった」ということがある。
 たいていの場合、何かを言うよりは黙っていたほうが正解である。何かをするよりはやらないでいるほうが結果うまくいくことが多い。とくに、感情(気分)に煽られての言動、酒に飲まれての言動は、あとから後悔することが多い。
 後悔というより反省か。
 今年は、そのあたりの是正を目標にしよう。


 さて、本題はそれとして、今日は講演後の質疑応答がなかなか面白く勉強になった。


●若い女性の質問「私は男性が怖いんです。どうすればいいんでしょうか」
○スマナ長老「一般論として言います。それは勘違い。男性のほうが女性を恐れているのです(場内笑)。命を生んで育てなくてはならない性が弱いはずがありません。生物学的にも女性のほうが強く作られているのです。私だって、男性が何人歯向かってきてもどうということもなくやり返せます。でも、女性が本気で歯向かってきたらお手上げです(と両手を挙げられる)。男性なんかどうってことない、という強い気持ちでいてください」

●中高年男性の質問「妻がアルツハイマーで記憶障害になった。どう対応したらよいのか」
○スマナ長老「難しく考える必要はありません。奥さんのいまの状態をそのまま受け容れて、奥さんがニコニコと幸せでいられるようにその場その場で対応すればいいのです。あなたのことが分からなくなったら‘隣のおじさんだよ。君のことが気に入ったんだ’とでも言ってあげてください」  


 認知症老人の介護を仕事(正命)としている立場から言って、スマナ長老の答えは大正解である。脳の器質異常(萎縮など)はもとに戻せないのだから、相手を昔のクリアな状態に戻そうとしたり、昔と違ってしまったことで苦しんだりするのは無意味である。今目の前の相手が穏やかに落ち着いて笑顔で過ごせるようにすることが一番である。
 そして、それは結局、認知症患者相手に限らず、平常の人間関係すべてについて言えることなのだ。過去のかくあった自分・未来のあるべき自分、過去のかくあった相手・未来のあらまほしき相手、そういったイメージに我々は捕らわれ過ぎている。‘いま、ここ’の自分と相手とが幸せであること、そこにしか幸せは築けないのである。