看護覚え書1869年刊行。

 よもやナイチンゲール(1820-1910)の本を読むとは思わなかった。人生わからぬものである。
 本書は、生涯で150冊を超える本を書いたフロレンス・ナイチンゲールの代表作  Notes on Nursing の邦訳である。現代でも看護師を目指す者の必読書となっている――のかどうか知らん。
 が、人間相手に‘介護’をやっている者ならば、介護職を目指すものならば、ぜひ手に取りたい本の一つである。当時、看護と介護は分かたれていなかった。この本で書かれていることの多くは、現代では看護よりもむしろ介護の領域にあてはまる。
 介護の仕事をしている自分は、この本の「看護」という言葉を「介護」と変換し、「看護婦」という言葉を「介護職」と変換して読んだ。今でも十分通用する、勉強になる(=仕事の役に立つ)ことばかりである。
 あたりまえだ。
 150年前のイギリスであろうと、2015年の日本であろうと、看護や介護の対象となるのは人間であり、ミス・マープル(アガサ・クリスティの創造したお婆ちゃん探偵)の口癖の通り、人間性というものは時代や場所が違っても基本的に変わらないからである。

 本書でナイチンゲールが随所で繰り返し強調していて、頭にこびりついてしまうのは、‘換気の重要性’である。ナイチンゲール女史は、まるで「新鮮な大気フェチ」であるかのように、窓を開けて屋内の空気を外気と同じように新鮮に保つことの必要を訴える。

良い看護が行われているかどうかを判定するための規準としてまず第一にあげられること、看護者が細心の注意を集中すべき最初にして最後のこと、何をさておいても患者にとって必要不可欠なこと、それを満たさなかったら、あなたが患者のためにするほかのことすべてが無に帰するほどたいせつなこと、反対に、それを満たしさえすればほかはすべて放っておいてよいとさえ私は言いたいこと、――それは《患者が呼吸する空気を、患者の身体を冷やすことなく、屋外の空気と同じ清浄さに保つこと》なのである。

 よっぽど当時の英国の室内は、空気の循環が悪く、汚れていたのだろう。(確かに、西洋の石造りの家屋は元来気密性が高い。)
 本書を読んでからというもの、自分もまた働いている介護施設で、2、3時間に一度は窓を開けて風通しを実行するようになった。冬の冷気もなんのその、寒がりな利用者にはその間一枚重ね着してもらっている。暖房代がもったいない気もするが、利用者の健康には変えられない。ナイチンゲールのお墨付きである。

 他にも、普段の仕事の中で「うんうん、その通り」とうなずくような記述がいっぱいあった。
 
病人の背後から、あるいはドア越しに、あるいは遠くから、あるいは病人が何かをしている最中には、けっして彼に話しかけてはならない・・・

 車椅子から立ち上がって歩き出す認知症の利用者は多い。自分の歩行能力を過信している(あるいは歩行能力が低いことを失念している)ので、立ち上がる=転倒リスク大である。
 車椅子から立ち上がった利用者を、職員がすぐに駆けつけられない距離に見かけた場合、絶対にやってはいけないのは、「声をかけること」である。「○○さん、立ち上がらないでください」とか「○○さん、危ない!」などと大声を出して、その声にびっくりした利用者が転倒してしまい、骨折→救急搬送→衰弱死という事故が実際にあった。転倒を防ごうとして、かえって転倒を引き起こすきっかけを作ってしまったのである。
 これは手痛いミスだ。その職員はしばらく落ち込んでいた。
 適切な対応は、立ち上がった利用者を発見したら、声を出さずに素早く静かに忍び寄って、まず両手でしっかり身体を支えることである。


・・・・・・患者が自分に関する話題から一刻も早く逃げ出そうとして黙然として何も語らず、ただシェークスピア劇の登場人物よろしく「ええ!」「はい!」「さあ!」「そう!」などとばかり受け答えしているようなばあいは、患者は友人たちの思いやりの無さに気が滅入ってしまっているのである。患者は、友人たちに取り囲まれていながら、孤独をかみしめているのである。彼は、自分に対する愚にもつかない励ましや言葉の洪水から解放されて、たった一人でもよいから、なんでも自分の思っていることを率直に話せる相手がいてくれたら、どんなに有り難いことだろうと思っているのである。そのような相手になら「もう二十年は生きられますよ。それが神の御意です」とか「まだまだ元気に働けますよ」などしつこく喋り立てる連中を抜きにして、自分の願いや今後のことなどを打ち明けて話すことができるであろうに、と思うのである。

この世で、病人に浴びせかけられる忠告ほど、虚ろで空しいものはほかにない。それに答えて病人が何を言っても無駄なのである。というのは、これらの忠告者たちの望むところは、病人の状態について本当のところを知りたいと言うのではなくて、病人が言うことを何でも自分の理屈に都合のよいように捻じ曲げること――これは繰り返して言っておかなくてならない――つまり、病人の現実について何も尋ねもしないで、ともかくも自分の考えを押しつけたいということなのである。

 一般に人は、「元気で健康=善、勝ち」「病気で無気力=悪、負け」と思い込んでいる。
 いわゆる、健康幻想である。
 だから、病気で弱っている人を見ると、「早く元気になって」と励まし、一般的な健康法(よく食べ、よく眠り、よくダし、規則正しい生活をするe.t.c)を持ち出し、独自の健康法(民間療法やらサプリメントや怪しげな呪いの類いe.t.c)を持ち出して、「こうすればいいよ」「そんなことはしないほうがいいよ」などと忠告したくなる。当人は善意からやっているつもりなのだが、実のところは、病気で弱っている人を見るとほかならぬ自分自身が言い知れぬ不安、不快になるからである。その証拠に「もう死にたい」とか「これ以上生きていてもどうしようもない」という言葉が病人の口から出ようものなら、すぐさま否定するか言葉に詰まってしまう。本音をこぼして否定された病人は、もう二度と同じ相手には本音を語らなくなるだろう。
 看護職や介護職は一般人以上に健康幻想を持ちやすい。
 仕事柄、当然と言える。看護(介護)する相手に、健康になってもらうこと、快癒してもらうこと、リハビリしてADL(日常生活動作)が向上すること、在宅復帰してもらうこと、最後までできるだけ自立して尊厳を保って過ごしてもらうこと、そのサポートをすること――それが、我々の務めであり、そのために給料が支払われているからである。
 だが、年を取れば転倒しやすくなるのと同様、年を取れば、いつでも、いつまでも、‘元気で健康’とはいかなくなる。老いて・弱って・病んで・死んでいくのは、生物としてのつとめ、避けられない条件である。認知症含め知力や精神力もまた同様に衰える。ベクトルを元に戻すことはスーパーマンでもできない。元に戻そうとエネルギーを注げば注ぐほど、そうはいかない現状に落胆することになる。
 これから先の人生が待っている回復力のある若い人たちをも相手にする看護職ならまだしも、高齢者を相手にする介護職は、健康幻想から解き放たれる必要があろう。我々は、老いて・弱って・病んで・死んでいく者の伴走者なのである。
 人生の何十年もの先輩である高齢者を励ます、ましてや忠告を与えるなど不遜以外のなにものでもあるまい。介護職に許され、かつ与えられた最大の特権にして貢献は、人生の終盤を生きている人々と「共にいること」であろう。
 
この世の中に看護ほど無味乾燥どころかその正反対のもの、すなわち、自分自身はけっして感じたことのない他人の感情のただなかへ自己を投入する能力を、これほど必要とする仕事はほかに存在しないのである。――そして、もしあなたがこの能力を全然持っていないのであれば、あなたは看護から身を退いたほうがよいであろう。看護婦のまさに基本は、患者が何を感じているかを、患者にたいへんな思いをして言わせることなく、患者の表情に現われるあらゆる変化から読みとることができることなのである。


 さすがナイチンゲール。
 繰り返し読み返したい本である。