鈴木秀子の本2014年刊行。

 著者は聖心会シスターでセラピスト。
 聖心会は1800年に聖マグダレナ・ソフィア・バラがフランスに創立したカトリック女子修道会。日本管区の本部は、渋谷区広尾の聖心女子大学(美智子皇后の母校)のキャンパス内にある。
 というより、聖心会によって日本各地の「聖心」と名の付く女子校は運営されている。
 自分も何度か広尾キャンパスに足を運んだことがある。こんな都会のど真ん中に、こんなにも豊かな自然と静寂な空気に満たされた場所があることに驚いた。

 鈴木秀子は日本のスピリチュアルリーダーの一人である。書店のスピリチュアルコーナーにはたくさんの著作が並んでいるし、本書にも書かれているように苦しみ悩んでいる多くの人々の話を聞いて癒しを与え、あちこちで講演やワークショップを行っている。日本にエニアグラム(9つの性格)を紹介したことでも有名である。
 この人の話を一度ナマで聴いたことがある。
 
 それは数年前、高野山(真言宗)が主催したスピリチュアルケアに関するシンポジウムだった。
 内容はよく覚えていないが、パネリストの一人として招かれていた鈴木秀子は、壇上に居並ぶ大乗仏教系の面々の中にあって、一人異彩を放っていた。仏教者の中にキリスト教者が混じっていた、男性ばかりの間に女性が混じっていたというばかりではない。そのとき講演した数名の宗教者の中で、彼女が一番‘凛として’、軸がしっかりしているという印象があった。
 演者の中にはそれこそ高野山の高僧も仏教系の教育関係者もいたのだが、皆なんとなく‘自らのあり方に迷っている’ような、‘自らの話していることを信じきれていないような’モラトリアムっぽい印象を受けたのである。そういう本心を偽って上辺ばかりの立派な言葉を語るよりは正直でよいと思ったが、信仰や修行が確信につながらないとしたら、なんのための宗教だろう?と思った。
 そのとき自分が「なるほど!」と感心し、今でも覚えている鈴木のセリフがある。
 
「信仰とは信じられないものを信じることです」
 
 そう。
 科学的に立証されたものや立証し得るものを信じることは誰にでもできる。
 そこには何の困難も障壁も賭けもない。未知に向かって自らを投機する運動がない。
「信じられるものを信じ、信じられないものを信じない」のはただの合理主義者であり凡人である。
 信じられないものをあえて信じると決意するところに‘信仰’の価値が、本質がある。
 でなければ、『信仰』という言葉には何の意味もない。
 おそらくは、信仰にとって真に重要なのは、信仰する対象の内容や真偽そのものではなく、自分の思考や価値観を越えた‘何か’の存在を認め、受け入れ、日常的な‘自分(=エゴ)’を放擲する、あるいは‘空’にする運動そのものにあるのだろう。
 だから、重要なのは「神」でも「キリスト」でも「天地創造」でも「復活」でも「奇跡」でもなくて、日常の近代的・合理主義的・資本主義的・物質主義的価値観およびそれらによって形成された「自我」を捨象し、『 』に括る視点を獲得できる立ち位置を得ることにある。

 鈴木秀子が一人のキリスト者として『聖書(旧約・新約)』の物語すべてを100%既成事実として信じているとはよもや思わないが、上記のような視点を持って世間の物事を見ていることは本書からも十分伺い知れるところである。

 私たちが幸せを感じられない理由は、たった一つです。それは、「自分軸を失っている」からです。
 地球に自転があり、昼と夜があるように、本来、宇宙の中で、私たちの存在ひとつひとつに、生まれながらに持っている「自分軸」があります。
 生まれたときからすでに完璧な存在である私たちは、ありのままの自分でいさえすれば、いつもまっすぐ自分軸で大地に立っていることができます。

 私たちは今、とても不確実な時代を生きています。確実なことは二つだけ。
 今、自分が生きているということ。
 そして、いずれ必ず死ぬということ。
 これ以外、確かなものなど何もありません。外の条件は一切合切、不確実なのです。
 不確実な時代を生きる私たちにとって、意識的に自分軸を鍛え、「ありのままの自分」でよいのだと気づくことはとっても大切です。